海外文学読書録

書評と感想

ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演戯』(1943)

★★★

演戯名人ヨーゼフ・クネヒトの伝記。カスターリエンでは学芸が重んじられており、少年クネヒトは音楽名人の引き立てもあって、その道の学校に入学する。ガラス玉演戯の修行を積んだクネヒトは、学校を卒業後、研究や在外使節の仕事をこなすのだった。やがてクネヒトは演戯名人に就任する。ところが……。

「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真の価値ある教えはないのでしょうか」(pp.382-383)

新潮世界文学全集(高橋健二訳)で読んだ。引用もそこから。

ガラス玉演戯とは音楽の延長上にある総合芸術のようで、そのルーツは「遊び」にあるようだ。そして、舞台であるカスターリエンは芸術の理想郷みたいな土地で、独自の階級制度を形成している。芸術の担い手は貴族階級として扱われ、国民が彼らに衣食を供給している。この構図は将棋や囲碁の世界に似ていると思った。

大人になってからする「遊び」は、子供がするような純粋な遊びではなくなっているような気がする。というのも、大人は「遊び」に対して名人を頂点とした階級制度を作り、それを維持する組織を作り、権威を持たせて経済活動に組み込んでいく。そして、「遊び」をすることで報酬を得る集団、すなわちプロの世界が形成される。言うまでもなく、「遊び」のプロにとって「遊び」は純粋な「遊び」ではない。生活を賭けた戦いである。大衆に「遊び」を見せることで富と名声を獲得し、社会的地位を高めていく。名人にもなると、その道のトップとして崇拝の対象になる。「遊び」が文化になることで、余計なものがつきまとうのだ。この構造が健全かどうかはともかく、人間は組織を作ること、秩序を作ることが大好きなようで、「遊び」でさえも階級制度の対象にしてしまう。この意識は人間が抱えるどうしようもない性ではないかと思った。

どんな芸術にも堕落がある、というのは実感として納得できるところがあって、これは芸術家が集まって互助会みたいな組織を作ることに原因があるのだろう。日本の文壇なんかその好例である。文壇においては、仲間同士がお互いの作品を褒め合って商品価値を高めようと躍起になっている。売上のため、生活のために信念を曲げ、駄サイクルを繰り広げている。そこには批評家や書評家といった蝿も寄ってきて、壮大な八百長相撲が行われているのだ。文壇においては作品の良し悪しなど問題にならず、作者が自分と仲良しであるかが重視される。仲良しが書いた作品だったら、たとえ駄作でも褒めちぎることになっている。従って、一般読者はそういった人間関係を把握しなければならない。たまに貶し書評が出たら、「この評者は作者と仲が悪いのだろう」と察しなければならない。このように日本の文壇には腐敗した精神が染みついており、だから読者離れが深刻になっている。

主人公のヨーゼフ・クネヒトは、名人として斯界の頂点に立ちながらも、それを捨てて踏み越える選択をした。階段を一段一段進んでいき、極めた後に目覚め、新たな始まりの地に立った。引退してゼロからのスタート。正直、僕みたいな俗物にはこういう人生は送れないけれど、偉大な作家が思い描いた理想像として、心の片隅に置いておこうと思った。