海外文学読書録

書評と感想

マーチン・サントフリート『ヒトラーの忘れもの』(2015/デンマーク=独)

★★★★

第二次世界大戦後のデンマーク。この国ではナチスが海岸線に200万以上の地雷を埋めたため、ドイツ人捕虜を使って除去作業をしていた。ラムスン軍曹(ローランド・ムーラー)が受け持つエリアにも9名の少年兵が割り当てられ、すべてを除去するまで故郷に帰さないと通達する。はじめは少年兵らを憎悪していた軍曹だったが、次第にその感情が和らいでいく。

デンマークって福祉国家のイメージがあるから、そこらの国よりは人権を重んじてるのだろうと思っていた。ところが、本作を観る限りではそうでもないみたい。彼らもまた侵略者に対して憎悪に燃えていた。捕虜のドイツ兵――それも少年兵――に地雷除去をさせるのって、国際法に照らしたら問題がありそうだけど、そういった倫理・道徳がすっ飛ばされるのだから厳しい。日本人の僕はシベリア抑留を連想したのだった。戦時中の仕返しとばかりに強制労働をさせるなんて、憎しみの連鎖をよく表している。戦争はスポーツと違って殺るか殺られるかの大勝負だ。勝ったほうが支配し、負けたほうが隷属する。先の大戦は枢軸国が悪いとはいえ、敗戦国とはつくづく惨めだと思う。

加害者をいかにして許すか? というのは大きな問題で、個人レベルでは可能でも集団レベルでは不可能ではないかと痛感している。ラムスン軍曹は少年兵らと触れ合うことで彼らに肩入れし、憎しみの感情を捨て去ることができた。しかし、軍曹の上官は現場にいないからそういう邂逅も果たせず、憎しみを保持したまま理不尽な命令を下している。加害者はあくまで加害者という態度なのだ。このような憎しみの連鎖を断ち切るには、対象と触れ合って相手を一人の人間、自分と同じ一人の人間として認めるしかないのだろう。しかし、それは容易なことではない。人間は感情で生きている動物であり、その感情を覆すには大きな体験を必要とする。そんな体験、誰もが得られるわけがない。ラムスン軍曹は運が良かっただけなのだ。この構造にやりきれなさを感じる。

本作では少年兵らが戦時中に何をしていたのかは明かされない。だから観ているほうとしても、彼らが一方的な被害者だと錯覚してしまう。故郷に帰りたがっている無垢な少年たち、といった具合に同情してしまう。しかし、彼らは戦時中に人を傷つけていたかもしれないし、もっと言えば人を殺していたかもしれない。そういった視点を持ち込んでもなお、相手に同情できるかがその人の試金石になるのだろう。願わくば、憎しみの連鎖はどこかで断ち切りたいものだ。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』(2015/米)

★★★

FBI捜査官のケイト・メイサー(エミリー・ブラント)が、上司の推薦を経て国防総省の麻薬捜査チームに志願する。彼女は顧問のマット(ジョシュ・ブローリン)、謎の男アレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)とチームを組み、メキシコの街フアレスで任務に当たる。法の遵守を重んじるケイトだったが、アレハンドロたちは平然とそれを破る。

メキシコ麻薬戦争を題材にした映画。

アメリカは21世紀に入ってから中東でドンパチやってるイメージだったけれど、実は隣りにメキシコという大きな爆弾を抱えており、そこでは麻薬を巡って仁義なき戦いをしていたようだ。周知の通り、アメリカとメキシコは陸続きだから麻薬も不法移民もじゃんじゃん入ってくる。これを見ると、ドナルド・トランプが国境沿いに壁を作ろうとしているのもまあ納得できるようになった。メキシコ政府は麻薬組織に対して有効な手を打てていない。警官は買収され、当たり前のように麻薬組織のために働いている。アメリカは自国の治安を守るべく、メキシコに不法介入するのだった。

ケイトが法の手続きを重視する立場なのに対し、アレハンドロはそんなのお構いなしに武力行使をする。アレハンドロにとってこれは戦争であり、麻薬組織に対する私的な復讐心が原動力になっていた。敵への憎悪が武力行使の根底にあるところは、「テロとの戦い」と同じ構図である。目的のためなら手段を選ばないところは、現代の戦争を体現していると言えよう。結局、人を駆り立てるもっとも強い感情は憎悪であり、それは個人も国家も同じなのだ。そして、悪と対峙するにはこちらも悪に徹しなければならない。終盤でアレハンドロが無実の人間を巻き込むところは迫力があって、この世は綺麗事では済まないという事実を突きつけてくる。

社会派サスペンスゆえか、アクションは思ったよりも地味で、人殺しの快楽を味わいたい僕にとっては物足りなかった。現実の僕はもちろん他人に暴力を振るうことはないけれど、映画やドラマで凄惨な暴力を見るのは好きで、この手の映画にはどうしてもそれを求めてしまう。本作でもっとも刺激的だったのが、無実の人間を射殺したシーンなのだから、我ながら歪んだ欲求を持っていると思う。

映像面で特筆すべきはメキシコの住宅地を空撮したシーンで、家々がきちんと区画整理されていたのが印象的だった。その周囲が荒野で何もないところがまた異国情緒を感じさせる。実写作品の醍醐味って、見慣れない風景を見ることにあるのだと実感した。こればかりは文学では表現できない。

フランク・キャプラ『オペラハット』(1936/米)

★★★★

田舎に住むディーズ(ゲイリー・クーパー)は、絵葉書に詩を書いたり、楽団でチューバを吹いたりして幸福に暮らしていた。そんな彼のもとに巨額の遺産が転がり込む。弁護士に連れられてニューヨークに移住したディーズだったが、タカリ屋たちが寄ってきてうんざりするのだった。そこへ彼のゴシップ記事を書こうと女性記者のベーブ(ジーン・アーサー)が近づいてきて……。

ウェルメイドな映画で感心したし、何より人間の善性を臆面もなく表現しているところが良かった。昔読んだ伊坂幸太郎の小説を思い出す。こういう良心的な作風はけっこう好きかもしれない。

主人公のディーズはあり得ないくらい善良な人物で、ヒロインから「健全な男が変人に見える」と評されるほどだけど、そんな彼が健全であるがゆえに、精神病を疑われるところが皮肉的だった。人間は多数派が考える社会のコードを守らないと異常者にされてしまう。ディーズみたいに遺産を放棄して全額慈善事業に使うと、精神病のレッテルを貼られてしまう。我々は無欲な人間などいないと決めつけているのだ。終盤の裁判では、そういう偏見から出発して、数々の逸脱を異常行動と認定し、ディーズを病人に仕立て上げようとしていた。「健全な人間」という鋳型を想定し、そこにはまらない人間を精神病院に押し込めようとしていた。考えてみたらこれは恐ろしいことで、『異邦人』【Amazon】にも通じる不条理があると思う。「健全な人間」として認めてもらうには、誰が決めたかも分からないその像を演じなければならない。僕もそういった規範を内面化しながら生活しているので、裁判の場面は見ていてぞっとしたのだった。

作中に困窮した農民が出てくるところは、当時の世相を反映しているのだろう。1930年代はニューディール政策によって公共事業を推進していた時期で、ディーズがやろうとしていたことも公共事業の一種である。ディーズが単純な施しではなく、雇用を確保する方向に動いたのって、極めて資本主義的ではなかろうか。それを補強するのが序盤で言及された赤字オペラの件で、彼はいくら芸術といえども赤字の事業には出資できないと明言している。日本だと芸術は補助金やら減税やらで保護されているので、ディーズの思想はいかにもアメリカ的だと思った。

終盤の法廷劇は崖っぷちから一気に逆転していて、昔の映画のわりにはよくできてるなと感心した。それと、本作はユーモラスなキャラが場面を引き立てていたと思う。序盤に出てくるASDっぽいおじさんは、訪問者と噛み合わない会話をして笑わせてくれたし、終盤に出てくる老姉妹は、発言する前に2人でひそひそ話をするところが奇妙で可笑しかった。本作は愛すべき人物に溢れた愛すべき映画だと言えよう。

ペーター・ハントケ『ドン・フアン(本人が語る)』(2004)

★★★

どこからともなく「私」の宿屋に逃げてきたドン・フアン。彼が「私」に物語をする。森林地帯を歩いていたドン・フアンは、カップルが青姦しているのに遭遇し、しばらくそれを観察する。立ち去ろうとした際、カップルに気づかれて逃げるはめになった。さらに、ドン・フアンは世界を股にかけた自身の女遍歴を語っていく。

ドン・フアンはずっと前から聴き手をさがしていたのだった。その聴き手を、彼は、あるうるわしい日、私の中に見つけた。自分の物語を、一人称ではなく、三人称で語った。ともかく今、私には、そういう風に思い浮かぶ。(p.5)

ドン・ファン伝説のバリエーションを意識してるようだけど、浅学の僕はモーツァルトのそれしか知らないので*1、この方面での工夫はよく分からなかった。

本作のドン・フアンは誘惑者ではない。女たちとそれなりに接近はするものの、肝心の細部は描かれない。彼は絶望と哀しみに駆り立てられており、世界にその哀しみを伝染させたいと願っている。哀しみのおかげで何の欲求も持たなくなった。そして、女たちはそんな彼の哀しみに惹かれている。本作のドン・フアンは恋愛工学的なプレイボーイではなく、天性の女たらしみたいな人物像になっていて、たぶんバリエーションとしてはそこが画期的なのだろう。ガツガツしてないのに不思議と親密になれる。異性に対して何らかの訴求力があるところは、モテない僕にとっては何とも羨ましい限りである。

ドン・フアンが哀しみに包まれているのは、彼がこの世界の孤児だからだ。それは比喩的な意味でもそうだし、生い立ちの意味でもそうである。そもそもすべての人間は孤児なのだ、というのは野暮な指摘かもしれないけど、本作はそれを前面に押し出しているところが現代的だ。人間にはそれぞれ自我の境界があり、他人と痛みや悲しみを共有することができない。一人で世界を知覚し、死ぬときは一人でその恐怖を味わう。我々が恋愛や社交に精を出すのは、所詮は対処療法に過ぎず、根源的な孤独からは終生逃れられないのだ。本作はドン・フアンが逃亡者であるところが象徴的で、すべての人間は何らかの現実から逃げている。

数々の女遍歴のなかでも、セウタで出会った女のエピソードが印象に残っている。彼女は復讐者であり、誰であれその都度の男を口説き落とし、手玉に取り、打ちのめすことに固執している。要はミサンドリーをこじらせているのだけど、実はこれこそが従来的なドン・ファンの鏡像なのだろう。つまり、世の中のプレイボーイはミソジニーを行動の核にしており、女を弄ぶことで暗い欲求を晴らしている。プレイボーイは復讐者なのだ。現代的なバリエーションのドン・フアンが、そのような復讐者でないのは、彼が哀しみによって去勢されているからかもしれない。

ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』(2003)

★★★★

ゴーゴリと名付けられたインド系移民2世の半生。父が息子にその名をつけたのは、若い頃に列車事故に遭った際、その作家の本を持っていたことで救われたからだった。ゴーゴリも少年時代はその名前を受け入れていたが、反抗期になってから違和感をおぼえ、大学進学をきっかけに改名する。自由になったゴーゴリは人並みに恋愛を重ねていくのだった。

「父さんは、このゴーゴリとは縁が深いように感じてるんだ。ほかの作家よりも、ずっと深い。なぜかわかるか?」

「作品が好きだから」

「それもそうだが、それだけじゃない。故郷を離れて暮らすようになった人なんだ。父さんみたいに」

ゴーゴリはうなずく。「そうだね」(p.96)

基本的には文化的背景の異なる親世代とのすれ違いを描いている。移民2世のゴーゴリは、1世とは違って母国への想いはないし、3世とは違って自身のルーツ探しもしない。アメリカ生まれのゴーゴリにとって、両親が大切にしているベンガル人の縁はいささか窮屈なもので、そこに帰属意識はなかった。どちらかというと、彼のアイデンティティは生まれ育ったアメリカに根ざしている。高い教育を受けた彼は、そこらの白人と同じくエリートコースを歩んでいくのだった。

自我が芽生えたゴーゴリにとって、喉に刺さった魚の小骨になっているのが、親からつけられた自分の名前だ。この時点で彼は名付けられた本当の理由を知らず、ロシアの作家にちなんでいることしか分かってない。ニコライ・ゴーゴリ。作家としては天才だった反面、精神が不安定で薄幸の生涯を送った。インド系の名前にしては風変わりだし、そもそも元のロシア語では名字だった。つまり、現代で言えばDQNネームというやつである。抱美弟(だびで)とか、魔離鳴(まりあ)とか、その類。改名したくなる気持ちも分からないでもない。親世代とのすれ違いをもっともよく表しているのがこの名前で、父親から本当の由来を聞かされるまでその問題がついて回っている。

中盤でゴーゴリが自分の名前の真相を知るところが本作における感動のピークだろう。その後も人生は続いているのだけど、父親の死を除けばほとんど余滴と言っても差し支えない。そして、終盤で意外なのがゴーゴリの結婚相手で、同じベンガル人の女性と結婚するのはなかなか反動的だと思った。というのも、僕はてっきり白人女性と結婚して、名実共にアメリカ人と同化するものだと思っていたのだ。しかも、そのベンガル人の女性は、結婚後に不倫をするのだから一筋縄ではいかない。ベンガル人との結婚が回帰的な行為だとすれば、相手が不倫をするのは極めてアメリカ的な行為だと言えよう。この辺、著者は明確な図式化を拒んでいるような感じがした。

それにしても、移民文学って僕なんか足元にも及ばないエリート層が題材になることが多い。本作も親世代からして既にエリートだった。物語としては面白いと思いつつも、いまいち感情移入できないのは、僕に僻み根性があるからかもしれない。もっとどうしようもない負け組の物語が読みたいなあ、と思ってしまう。格差社会どん底にいる人の物語。そういうのは映画で観るしかないのだろうか。