海外文学読書録

書評と感想

ペーター・ハントケ『ドン・フアン(本人が語る)』(2004)

★★★

どこからともなく「私」の宿屋に逃げてきたドン・フアン。彼が「私」に物語をする。森林地帯を歩いていたドン・フアンは、カップルが青姦しているのに遭遇し、しばらくそれを観察する。立ち去ろうとした際、カップルに気づかれて逃げるはめになった。さらに、ドン・フアンは世界を股にかけた自身の女遍歴を語っていく。

ドン・フアンはずっと前から聴き手をさがしていたのだった。その聴き手を、彼は、あるうるわしい日、私の中に見つけた。自分の物語を、一人称ではなく、三人称で語った。ともかく今、私には、そういう風に思い浮かぶ。(p.5)

ドン・ファン伝説のバリエーションを意識してるようだけど、浅学の僕はモーツァルトのそれしか知らないので*1、この方面での工夫はよく分からなかった。

本作のドン・フアンは誘惑者ではない。女たちとそれなりに接近はするものの、肝心の細部は描かれない。彼は絶望と哀しみに駆り立てられており、世界にその哀しみを伝染させたいと願っている。哀しみのおかげで何の欲求も持たなくなった。そして、女たちはそんな彼の哀しみに惹かれている。本作のドン・フアンは恋愛工学的なプレイボーイではなく、天性の女たらしみたいな人物像になっていて、たぶんバリエーションとしてはそこが画期的なのだろう。ガツガツしてないのに不思議と親密になれる。異性に対して何らかの訴求力があるところは、モテない僕にとっては何とも羨ましい限りである。

ドン・フアンが哀しみに包まれているのは、彼がこの世界の孤児だからだ。それは比喩的な意味でもそうだし、生い立ちの意味でもそうである。そもそもすべての人間は孤児なのだ、というのは野暮な指摘かもしれないけど、本作はそれを前面に押し出しているところが現代的だ。人間にはそれぞれ自我の境界があり、他人と痛みや悲しみを共有することができない。一人で世界を知覚し、死ぬときは一人でその恐怖を味わう。我々が恋愛や社交に精を出すのは、所詮は対処療法に過ぎず、根源的な孤独からは終生逃れられないのだ。本作はドン・フアンが逃亡者であるところが象徴的で、すべての人間は何らかの現実から逃げている。

数々の女遍歴のなかでも、セウタで出会った女のエピソードが印象に残っている。彼女は復讐者であり、誰であれその都度の男を口説き落とし、手玉に取り、打ちのめすことに固執している。要はミサンドリーをこじらせているのだけど、実はこれこそが従来的なドン・ファンの鏡像なのだろう。つまり、世の中のプレイボーイはミソジニーを行動の核にしており、女を弄ぶことで暗い欲求を晴らしている。プレイボーイは復讐者なのだ。現代的なバリエーションのドン・フアンが、そのような復讐者でないのは、彼が哀しみによって去勢されているからかもしれない。