海外文学読書録

書評と感想

ルキノ・ヴィスコンティ『イノセント』(1976/伊=仏)

★★★★

トゥリオ伯爵(ジャンカルロ・ジャンニーニ)は妻ジュリアーナ(ラウラ・アントネッリ)への愛が冷めていた。トゥリオは未亡人のテレザ公爵夫人(ジェニファー・オニール)に熱を上げている。トゥリオはジュリアーナに自分の浮気を認めて欲しかった。一方、ジュリアーナは作家のフィリポ(マルク・ポレル)と親密になり、彼の子を妊娠する。トゥリオは堕胎させたがったが、ジュリアーナは産むことを決意していた。

原作はガブリエーレ・ダヌンツィオ『罪なき者』【Amazon】。

19世紀的なデカダンスは、現代人が見ると一周回って面白い。というのも、21世紀の文学・映画ではもうお目にかかれないから。今じゃキリスト教なんて誰も信じてないし、従ってそれに対するアンチテーゼもない。古き良き古典としての価値がある。

妻ジュリアーナはキリスト教の価値観に染まっている。だから堕胎は罪だと考えていた。一方、夫トゥリオは無神論者である。「地上のことは地上で解決するしかない」がモットーだった。トゥリオはジュリアーナの教条主義に辟易している。トゥリオは自分一人が浮気を楽しんでいるつもりだったが、その裏でジュリアーナに浮気されてしまった。あろうことか間男の子を妊娠している。奇しくもトゥリオはコキュになってしまった。

男にとってこれほど屈辱的なことはないだろう。愛が冷めたとはいえ、依然としてジュリアーナは自分の所有物なのだから。男にとって女の腹は借り物である。自分の遺伝子を残して欲しかったら女に産んでもらうしかない。出産とは究極の愛なのだ。間男の子を産もうとしているジュリアーナは愛ゆえにそうしている。キリスト教が堕胎を禁止しているからではない(それは表向きの言い訳だ)。同時に、出産は復讐でもある。トゥリオは赤ん坊の顔を見るたびに間男の顔を思い出すだろう。とても平静ではいられないはずだ。間男の子が自分の嫡子として財産を相続する。トゥリオにとってこれほどおぞましいことはない。間男の子を産むというのはそれだけ一大事なのである。

トゥリオは自分たちのことを「自由な夫婦」だと言い、ジュリアーナの浮気を認めていた。しかし、それは建前であり強がりであった。本当は自分だけが自由でありたかったのだ。妻の妊娠・出産は自由な恋愛遊戯に反する。自分がやったことを倍返しにされてしまった。トゥリオの浮気相手は自我の強そうなファム・ファタールなのに対し、ジュリアーナは地味で押し出しの弱い女である。だからトゥリオはジュリアーナのことを舐めていたのだろう。こいつなら俺の思い通りになる、と。トゥリオにとってジュリアーナの妊娠は青天の霹靂だった。他人を下に見ると痛い目に遭う。

本作の特徴は、登場人物が舞台をお膳立てするための道具になっているところだ。誰もが機能的に造形されていて、各々役割を演じることで一つの状況を作り出している。こういった作劇はまさに近代文学だ。現代文学にはない粗っぽさがある。