海外文学読書録

書評と感想

ジェスミン・ウォード『骨を引き上げろ』(2011)

★★★★

ミシシッピ州の架空の街ボア・ソバージュ。黒人の少女エシュは幼い頃に母親を亡くしており、現在は長兄のランドール(17)、次兄のスキータ(16)、弟のジュニア(7)、さらに父親の4人と一緒に暮らしている。折りしも天気予報はハリケーンの上陸を予報していた。エシュは元カレの子供を妊娠していることに気づく。また、スキータは飼い犬チャイナの出産に熱中していて……。

〈明日になれば、きっと何もかも洗い流される〉。わたしは頭の中で考える。わたしのお腹にいるものはこれからも容赦なく居座り続け、くる日もくる日も訪れる耐えがたい一日のように、やがて訪れるのだろう。小さくなっていくマニーを見つめながら、わたしの肋骨は乾いた夏の小枝のようにぽきぽき折れ、燃えて燃えて燃え続ける。

「赤ちゃんが生まれたらわかるから!」わたしは叫ぶ。「絶対にわかるから!」けれども声は風に捕まり、松のむこうへ運ばれて、地上に落とされ、息絶える。(p.237)

全米図書賞受賞作。

母性を描いた小説としてここまで苛烈なのもなかなかないような気がした。本作は母性を多角的に捉えつつ、ハリケーンカトリーナという大災害をぶつけて一気に方を付けている。エシュが母親になることを決心するラストには静かなカタルシスがあって、主流文学とはかくあるべしと思った。

一家にはまず母親がいない。母親は末弟のジュニアを出産した後に死んでしまった。だから出てくるのは常に思い出の中だけである。本作はエシュの一人称視点で語られているから、出てくるのは彼女の思い出の中だ。物語は一家の日常を柱としながらも母親のエピソードがちょくちょく挿入される。

そして、エシュのお腹には胎児がいる。元カレの子だ。エシュは今でも元カレに惚れているものの、元カレのほうは既に新しい彼女がいる。エシュは思うのだった。妊娠の事実を告げれば元カレが戻ってきてくれるのではないか、と。しかし現実は残酷で、元カレに妊娠を告げたら「おれには関係ない」と突き放されてしまう。

本作はピットブルのチャイナの出産から始まる。チャイナはスキータが偏愛する闘犬で、スキータはチャイナの子供を売って金儲けを目論んでいた。チャイナを巡っては2つの言説が交錯する。ひとつは、子犬を産めばどんな犬でも弱くなるという言説。もうひとつは、守るべきものができて強くなるという言説。母性とは果たしてどちらなのだろう?

チャイナで注目すべきはその暴力性である。チャイナは自分が産んだ子犬を噛み殺し、また、闘犬の試合では対戦相手と死闘を演じたすえに喉笛を食いちぎっている。これは母性の裏側にあるどろどろした攻撃性を表象しているのだろう。「包み込むやさしさ」というイメージとは裏腹に、母性にはかくも残酷な一面が内包されていた。母親になるとは、すなわちこの暴力性も引き受けるということだ。エシュが決心するラストはもちろんこのことを踏まえているはずであり、だからこそ本作を味わい深いものにしている。母親になるというのは決して綺麗事では済まないのだ、と。

一方、本作で目立つのは父性の欠如である。エシュの父親は来たるべきハリケーンに向けて準備をするも、子供たちをコントロールできない。「おれは家族を救おうと必死なんだ」「おまえたちみんな、もっとおれに感謝しろ。わかったか?」と情けないことを口走っている。彼は父親として一応は尊重されているものの、従来の家父長制にあったような絶大な権力は持ち合わせていない。力ずくで子供たちを支配することができないのだ。一家は良くも悪くも今風の家庭で、母性の存在感に比べると父性はいくぶん後退している。

ところが、父性は思わぬ部分で顔を出す。エシュの元カレが妊娠させた責任を放棄――父親になることを放棄――した後、友達のビッグ・ヘンリーがこう言うのだ。「その子の父親は大勢いる」「忘れんなよ、おれはいつでもいる」と。元カレのクズっぷりと比べて何たる高潔さだ。父性とは妻子を従わせる暴力なのではない。妻子を見守るやさしさなのだ。そう言いたげなエピソードで心が洗われる。

というわけで、本作は母性と父性の絡み合いが面白かった。