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青年シモン(スタニスラス・メラール)はパリの豪邸で祖母(フランソワーズ・ベルタン)、メイド(リリアン・ロベレ)、恋人アリアーヌ(シルヴィー・テステュー)と暮らしている。シモンとアリアーヌには共通の友人アンドレ(オリヴィア・ボナミー)がいた。シモンはアリアーヌが女友達と愛し合っていると思い込んで尾行する。アリアーヌと歌姫レア(オーロール・クレマン)が怪しい。シモンはアリアーヌに探りを入れた挙げ句に別れを切り出す。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』【Amazon】の一編「囚われの女」を原案としている。これまでフェミニズムと同性愛に関心を寄せていたシャンタル・アケルマンが、プルーストに行き着いたのは必然だろう。ヒロインのアリアーヌは同性との浮気を疑われ、恋人シモンから精神的に圧をかけられる。アリアーネはアルベルチーヌに相当する立場だった。
なぜシモンがアリアーヌを疑うかといったら信用できないからだが、そもそも自分という主体にとってすべての他者は多かれ少なかれ信用できない。他者は何を考えているのか分からないし、自分のいない間に何をしているのかも分からない。自律した意思を持った人間はコントロールできないのである。他者の内面は数少ないエビデンスから想像するしかない。これが人間存在の根本原理であり、自分と他者との間に横たわった不確実性である。相手は自分のことを愛しているのか? 分からない。相手は他所で浮気をしているのか? 分からない。分からないからこそ猜疑心が頭をもたげてくる。
束縛の強い男というのはどこにでもいて、彼らは恋人のすべてを知りたがる。シモンはアリアーヌのすべてを知りたがった。それに対してアリアーヌは、「知らない部分があるから愛せる」と言っている。2人の恋愛観は正反対だった。思うに、シモンは自他の境界を曖昧にしてアリアーヌと同一化したかったのだろう。2人ですべての感情を共有したい。すべての価値観を共有したい。そして、心地よい愛で満たされたい。未知の部分を残さず完全に溶け合うこの恋愛観は、他者を愛しているのではなく、他者を通して自分を愛している。シモンにとっての愛は自己愛であり、他者は自己愛を満たすための道具に過ぎなかった。シモンはそういった自己愛の牢獄に囚われているし、アリアーヌもシモンの自己愛に囚われようとしている。
アリアーヌに別れ話を切り出したシモンは、「嘘は一度もない?」と彼女に問いただす。アリアーヌはシモンに心配させまいと2つだけ嘘をついたと自白した。ところが、シモンはそれが気に食わない。彼は嘘のない関係を望んでいたのである。ここで思い出したのが、漫画『【推しの子】』【Amazon】だ。同作に「嘘はとびきりの愛なんだよ」というセリフが出てくる。嘘は他人を傷つけないためのやさしさであり、それはとびきりの愛なのだ。ところが、すべてを知りたがるシモンにはその機微が分からない。他者を信用するとは嘘も含めて信用するということで、それには大きな度量が必要とされる。シモンにその度量はなかった。猜疑心に取り憑かれた男には何を言っても焼け石に水である。
『新世紀エヴァンゲリオン』【Amazon】では碇ゲンドウが全人類をひとつの生命体へと進化させようとした。心の壁を取り払おうとした。それも他者との関係が不安だからで、人間が個の群れである以上は避けられない問題である。人間とはかくも悲しい存在なのだった。