★★★★
全6編のオムニバス。第二次大戦末期のイタリアを舞台にしている。
イタリアは枢軸国であるにもかかわらず、早期に降伏してドイツ軍と戦った。ナチスを敵として描けるところがおいしすぎる。一方、日本はそれができないから『宇宙戦艦ヤマト』という歴史修正主義的なアニメを作った。同じ敗戦国でも歴史認識において明暗が分かれている。
以下、各エピソードについて。
第1話。アメリカ軍がシチリアに上陸、ドイツ兵が潜伏する城塞に向かう。その際、斥候のジョー(ロバート・ヴァン・ルーン)と村娘のカルメラ(カルメラ・サツィオ)が2人きりになる。理解と誤解のコントラストがすごかった。ジョーとカルメラは異なる文化圏の出身でおまけに初対面だったが、それをコミュニケーションによって理解していく。一方、その後の悲しい展開により、カルメラはアメリカ兵から誤解されてしまう。こういうのを見ると、人生とはままならないと思う。
第2話。連合軍がナポリを解放、黒人兵のジョー(ドッツ・M・ジョンソン)が少年と関わる。泥酔していたジョーは少年に靴を盗まれた。街頭の曲芸や劇場の小芝居など、町中の狂騒が目を引いた。こういったシーンは解放の喜びに溢れている。また、ナポリの子供たちが現代ヨーロッパのジプシーみたいなのに驚く。彼らは何の悪気もなく窃盗しているのだ。生きるとはこういうことなのだろう。そして、少年の住まいが貧民窟みたいで強烈である。粗末な建物と大勢の人々。
第3話。ローマ。アメリカ軍の戦車兵・フレッド(ガール・ムア)が、毛皮の商売女・フランチェスカ(マリア・ミーキ)とベッドを共にする。フレッドは6ヶ月前のことを回想するのだった。19世紀のヨーロッパ文学っぽい、どこかで見たような話だ。こういうすれ違いには普遍性があるのだろう。時代を変えて舞台を変えて、永遠に繰り返される。ところで、一連の短編を見るとイタリア人にとってアメリカ軍は解放のイメージだったことが分かる。日本人にとってもそういうイメージだったので感慨深い。アメリカ軍の占領政策は大筋で上手くいっていたようだ。
第4話。フィレンツェではパルチザンとファシスト勢力が争っていた。看護婦のハリエット(ハリエット・ホワイト)が恋人のギイドを探す。ギイドは現在、パルチザンでルーポと呼ばれていた。ファシスト勢力が残存する町に侵入してあちこち移動するところがスリリングだった。扇情的な劇伴もまたスリルを盛り上げている。全体的にロケ撮りの良さが出ていて、戦場ドキュメンタリーのような迫真性があった。ヌーヴェルヴァーグの作家たちがロケ撮りに拘ったのも理解できる。ところで本作の物語は稚拙だが、物語を導線にしてフィレンツェの町並み、さらには町中でのドンパチを見せたかったことが伝わってくる。物語は映像を見せるための道具に過ぎないというわけ。
第5話。500年の歴史を持つ教会にアメリカ軍の従軍司祭3人が逗留する。それぞれ、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教徒だった。教会側は異教徒が2人もいることに混乱する。日本人からすると、同じアブラハムの宗教なのに異教徒扱いして問題視するのが面白い。もし仏教徒やヒンドゥー教徒が混じっていたらどうなっていただろう? ともあれ、多少の軋轢がありながらも「信仰」の一点で融和するところは宗教の強みだと思う。僕みたいな無宗教には味わえない一体感だ。
第6話。ポー川のデルタ地帯でパルチザンがドイツ軍と戦闘している。戦況はこちらに不利だった。戦闘シーンにサイレントの遺風が見られて面白い。劇伴の使い方やカット割りにそれが感じられる。ただし、腐ってもロケ撮りなので当時としては迫力があるのは確かだ。サイレントの遺風が見えつつも、全体としては進歩の跡が窺える。