海外文学読書録

書評と感想

イタロ・カルヴィーノ『最後に鴉がやってくる』(1949)

★★★★

短編集。「ある日の午後、アダムが」、「裸の枝に訪れた夜明け」、「父から子へ」、「荒れ地の男」、「地主の目」、「なまくら息子たち」、「羊飼いとの昼食」、「バニャスコ兄弟」、「養蜂箱のある家」、「血とおなじもの」、「ベーヴェラ村の飢え」、「司令部へ」、「最後に鴉がやってくる」、「三人のうち一人はまだ生きている」、「地雷原」、「食堂で見かけた男女」、「ドルと年増の娼婦たち」、「犬のように眠る」、「十一月の願いごと」、「裁判官の絞首刑」、「海に機雷を仕掛けたのは誰?」、「工場のめんどり」、「計理課の夜」の23編。

「戦争は? 戦争はどんな具合だ?」

「戦争なら、ずいぶん前に終わったよ、バチッチン」

「そいつはよかった。それで、戦争の代わりになにが訪れたんだ? どのみち、俺は戦争が終わったなんて信じないね。これまでだって何度も終わったって言いながら、そのたびに別のかたちで始まったじゃないか。ちがうか?」

「いいや、正しいよ」(p.58)

以下、各短編について。

「ある日の午後、アダムが」。新しくやってきた庭師はまだ少年だった。少年は小間使いの少女に色々なプレゼントをしようとする。この少年は15歳なのだけど、年齢よりも無垢で妖精みたいな印象である。少女にカエルやヘビなどをあげようとするのもまた幼い子供みたいだ。しかし、この溢れんばかりの生き物は自然の豊穣さを表していて面白い。オチはまるで魔法だった。

「裸の枝に訪れた夜明け」。マジョルカ男のピピンが妻と交代で柿の木の警備をする。ピピンヴェネツィア人のサルタレルと知己であり……。今回は柿の木だったけれど、この手の畑泥棒は現在でもいるからとかく農業は難しい。日本でもいちごや大根などがよく盗まれている。収穫物が白日の下にあり、そこへのアクセスが物理的に自由だからこういうことが起きている。農業って産業としては欠陥が大きすぎる。

「父から子へ」。ずんぐりした牛を飼っているナニンが子供たちに堅信式を受けさせようと思い立つ。そのために立派な服を用意してやろうと算段するが、現実にはそれを用意する金がなかった。現実と空想の境目が曖昧になって突拍子もないことを口走るのはよくあることだ。そして、それを見越したかのように牛が現実を思い出させようと乱入する。

「荒れ地の男」。「僕」が父さんと野兎を狩るべく二手に別れる。「僕」は〈至福のバチッチン〉と出会い、彼と話をする。バチッチンは田舎で暮らすにはちょっととろくて家族を養えるかどうかも怪しい。彼と話すことで「僕」のたくましさが際立っている。それにしても、バチッチンの話と狩りの様子が合流する結末が何とも言えない。

「地主の目」。地主の息子が父に命じられて小作人の監督をしにいく。しかし、地主の息子は小作人を怒鳴らないうえ、小作人は地主の息子を余所者だと認識しているから、みんなだらだらとお喋りをするのだった。こういう原始的な共同体に必要なのは威厳で、威厳の元となるのが共同体に利益をもたらす指導力なのだろう。だから地主は厳しくても小作人から認められている。ところで、今回は戦争が背景にあった。

「なまくら息子たち」。アンドレアとピエトロは父の仕事を手伝わずにぐうたらしていた。父は地主をしている。19世紀のロシア文学を彷彿とさせるニート小説だった。2人はいわゆる「余計者」だけど、特に世間に迷惑をかけていないだけマシだろう。だいたい暇を持て余した奴なんてろくなことやらないから。ともあれ、本作は2人の生活感覚がいい。

「羊飼いとの昼食」。裕福な一家が羊飼いを呼んで食卓を囲む。高校生の「僕」は羊飼いが置かれた状況を察して気を揉む。階級や文化の違いは男同士の連帯を持ってしても糊塗できない。それを象徴しているのが兵役だ。すべての男性に共通して降りかかる兵役でさえ、一家と羊飼いでは断絶が横たわる。そのことに気づかない大人衆は無神経だ。

「バニャスコ兄弟」。旅好きでよく家を空けるバニャスコ兄弟。そんな彼らは地元で嫌われていた。弟による冷静な語りと兄弟による無軌道な振る舞い。両者にギャップがあって面白い。こういうのは一人称小説の醍醐味だろう。

「養蜂箱のある家」。人里離れた一軒家で孤独に暮らす男の独白。彼には何か訳がありそうだった。これはいわゆる「信頼できない語り手」ってやつかな。女を巡る話では明らかに嘘をついているのだけど、結局は真偽不明のまま終わる。奇妙な後味を残す短編だった。

「血とおなじもの」。SSに母親を逮捕された兄弟が〈コミュニスト〉のグループへ。戦時中の反乱分子が集まる場所を描いていて、その乾いた雰囲気が何とも言えない。パルチザンレジスタンスってヨーロッパではよく見る題材だけど、日本ではまずお目にかかれない。だからこそ貴重に思える。

「ベーヴェラ村の飢え」。1944年のベーヴェラ村。砲弾が飛び交う中、老人がラバに乗って町まで食糧を調達してくる。村人たちはそれを喜ぶのだった。やがてドイツ軍が撤退し、村に黒シャツ隊がやってくる。この老人がどこか浮世離れした存在で、物語も何かの寓話に思える。最後にラバもろとも倒れるところが映画的だ。

「司令部へ」。丸腰の男が武装した男に連れられ司令部へ向かう。丸腰の男はスパイのリストに載っていた。ところが、武装した男は必ず釈放されると太鼓判を押す。最後まで読んでから振り返ると、武装した男の態度は食えないし、あのラストには不条理すら感じる。発砲までの間がすごい。

「最後に鴉がやってくる」。少年が男たちから銃を借りて水面の鱒を撃つ。少年の腕前に感心した男たちが、自分たちの陣営に彼を連れていく。道中、少年は様々な動物を撃つ。そして……。少年はパルチザンでもなければドイツ兵でもなく、降りかかる火の粉を払ってる感じ。最後に鷲の紋章を撃ち抜くところは皮肉が効いている。鴉は死兆星みたいなものかな。

「三人のうち一人はまだ生きている」。三人の罪人が村人たちに処刑されようとしていた。そのうち二人は射殺されて井戸に落ちていったが、一人は撃たれる前に飛び降りて井戸の底で生き伸びる。村人たちは処刑をやり直そうと彼にロープを投げる。え、この状況から助かっちゃうんだ? って思った。てっきり洞窟から抜けた後に射殺されるだろう、と。ともあれ、ラストの喜びはよく分かる。

「地雷原」。ズアーヴ兵風のズボンを穿いた男が地雷原を歩く。最後の一段落が引用したくなるほどいい。これは不可避的な結末である。

「食堂で見かけた男女」。食堂で成金の太った女と没落貴族の老人が同席する。それを観察する「僕」はトラブルを予感する。老人の空回りぶりがドストエフスキー的で、誰か止めてやれよと思いながら読んだ。観察者の「僕」もヒヤヒヤしている。女と老人、戦後になって力関係が逆転しているのもせつない。老人にはもう過去の栄光しか残されていないのだ。

「ドルと年増の娼婦たち」。近所の店にアメリカの水兵たちがやってきた。エマヌエーレは妻のイオランダを使ってリラとドルの両替を目論む。ところが、イオランダは娼婦に間違われて水兵たちに囲まれてしまった。エマヌエーレが策を講じる。戦後間もない敗戦国はどこもこんな雰囲気だったのだろうな。兵士と性欲は切っても切れない関係で、日本でもパンパンが求められた。

「犬のように眠る」。駅の宿泊所で男女が雑魚寝する。個人的には、熟睡してるときに起こされるのはギルティなのだが、本作のイタリア人はトイレの場所を教えてもらうために寝てる男を起こしていて恐ろしすぎると思った。あと、普段ベッドで寝てる僕は雑魚寝なんて絶対したくない。

「十一月の願いごと」。全裸にミリタリーコートを羽織った男が、服を貰いに司祭のところにやってくる。周囲のご婦人連中はその出で立ちに大騒ぎだった。新品の下穿きがチクチクするっていうのがよく分からない。昔の服はそうだったのかな。そして、毛皮のコートは確かに感触が良さそう。僕も全裸の上に羽織ってみたい。

「裁判官の絞首刑」。裁判官オノフリオ・クレリチはイタリア人を見下していた。イタリア人もそんな彼を嫌っている。町で不穏な空気が流れるなか、裁判が行われる。もし現実に処刑するとしたらこういう手続きはまず踏まないと思うので、本作は極めてフィクショナルな不条理劇だと言えよう。そして、そのぶん気が利いている。ところで、裁判官によるイタリア人の素描はネオリアリズモっぽい。

「海に機雷を仕掛けたのは誰?」。財産家の屋敷で歓談中に老夫が荷物を持ち込んでくる。それは機雷だった。そういえば、『ヒトラーの忘れもの』は捕虜にしたドイツ軍の少年兵に地雷を撤去させる話で、あれはかなり残酷なシチュエーションだった。本作はそれに比べるとぬるいものの、似たような意趣返しはイタリア人も思いつくのだなと感心する。

「工場のめんどり」。警備員が工場で一羽のめんどりを飼っていた。それが原因で一騒動起きる。滑稽と不安がないまぜになった居心地の悪い短編で、人生において喜劇と悲劇は紙一重なのだと思わせる。

「計理課の夜」。夜の計理課では清掃会社の社員が掃除の仕事をしていた。少年も母親に連れられ職場にやってくる。現場には残業している計理士がいて……。昼と夜とで職場の顔ぶれが様変わりするのって、高校が全日制から定時制に変わるような感じだろうか。それはともかく、計理士が少年に打ち明けた計算ミスの話がぞっとする。バレたら会社が吹っ飛ぶぞ。