★★★★
ドイツ軍に占領されたローマ。神父のドン・ピエトロ(アルド・ファブリーツィ)が、レジスタンスのマンフレーディ(マルチェロ・パリエーロ)から資金の配送を依頼される。マンフレーディは印刷工のフランチェスコ(フランチェスコ・グランジャッケ)に匿ってもらうが、フランチェスコとピーナ(アンナ・マニャーニ)の結婚式当日、アパートがドイツ軍に包囲されるのだった。一方、マンフレーディには恋人マリーナ(マリア・ミーキ)がいるも、彼女は薬物依存症になっている。
屋内撮影と屋外撮影にギャップがあるところが目を引いた。屋内撮影は一般的な映画とあまり変わらない。ほとんどセット撮りだろう。一方、屋外撮影はロケ撮りで、映像の臨場感が抜群に良かった。被写体への距離とアングルが当時の映画とは一味違っていて、そこが独特の迫真性に繋がっている。ストーリーの性質上、屋内撮影の比率が多いのは仕方がないのだろう。とはいえ、これだけの技術とアイデアがあるならもっと屋外撮影を見せてほしかった。それくらい屋外撮影は光っている。
第二次大戦時のイタリアが特殊なのは、早めに降伏してドイツに宣戦布告しているところだ。だから枢軸国であるにもかかわらず、ナチスを敵として描くことができる。そこはずるいところでもあるし、おいしいところでもある。ナチスを敵にすることでイタリア国民もまた「正義」の側に立つことができるのだから。当時の大衆はムッソリーニを支持していたはずだが、敗戦によって手のひらを返したわけだ。今後は心を入れ替えて世界の「悪」と戦う。日本人としてはこの特殊性がたまらなく刺激的である。
大義について描かれているのが印象的だった。中盤で子供たちが「女は英雄になれないの?」みたいなことを言う。これはマリーナが裏切ることを暗示しているのだろう。マリーナの恋人はレジスタンスのマンフレーディだが、薬物欲しさに彼を密告するのである。マリーナは大義に殉じることができなかった。一方、ゲシュタポに逮捕されたマンフレーディは手酷い拷問を受ける。体中が傷だらけになった。しかし、それでも口を割らない。彼はそのまま何も喋らず死んでしまった。マリーナとは対照的に大義に殉じている。これはつまり、女には大義は分からないということだろう。大義に生きる男と大義の分からない女。この図式は古いフィクションでわりとよく見かける。現実の女が本当にそうなのかは分からないが、少なくともステロタイプになっていることは確かだ。現代に生きる我々はこれをどう捉えるべきだろう? 一種の女性差別として捉えるか。あるいは現実の反映として捉えるか。今のところは答えが出せないでいる。
印象に残っているシーン。ドイツ軍がアパートを取り囲むシーン。遠目の距離から映すことで隠し撮りのような臨場感がある。もうひとつ。レジスタンスがドイツ軍のトラックを急襲するシーン。ここは頭数の多さが迫力に繋がっていて、低予算ながらも見栄えのする映像になっていた。
マリーナがゲシュタポ婦人部長のイングリット(ジョヴァンナ・ガレッティ)と同性愛の関係にあることを匂わせている。同時代のハリウッド映画では無理そうな表現で興味深かった。やはりヘイズ・コードは良くない。