海外文学読書録

書評と感想

大島渚『無理心中 日本の夏』(1967/日)

★★★

18歳の淫乱娘・ネジ子(桜井啓子)が、誰かに殺されたいと願うオトコ(佐藤慶)と出会う。2人はライフルを掘り出す現場を目撃したため拉致されることに。倉庫らしき場所に連れてこられた2人は、人を撃ちたがっている少年(田村正和)、拳銃を所持しているおもちゃ(殿山泰司)、刃物で人を刺すのが趣味の鬼(小松方正)らと出会う。一方、外では白人のライフル魔が人を殺しまくっていた。

屋内のシーンが多いうえに登場人物の性格がきっちり決まっていて、どこか演劇っぽい雰囲気がある。大島渚が観念的と評される所以だろう。登場人物はあくまで状況を作る記号でしかない。みんな役割分担がはっきりとしている。必要に応じて集団から人を間引いていくところはすこぶる機械的だ。各シーンにはそれぞれ最適な人数というのがあり、ちゃんとシーンに頭数を合わせている。こういうところは脚本の妙味のような気がした。快適な画面を作るノウハウが蓄積されている。

アナーキストによる暴力は通り魔と同じでただ破壊衝動に従っているだけに見える。武器が使えるなら敵は誰でもいい。それは一時的に秩序を乱すだけで革命とは程遠い。日本における運動とはこの程度のものである。面白いのは男たちがみんな不能であるところで、彼らは誰一人としてネジ子を抱くことができない。また、拳銃やライフルを手に入れても銃弾の発射はしばしば延期される。アナーキストとは生(=性でもある)から阻害された不健康な存在なのだ。最近では社会に適応できない若者がファシストを自称する中年男性の元で合宿しているが、当時運動の主体になっていたのはそういう若者である。彼らはこの社会に居場所がない。だから運動に身を投じることで居場所を見つけている。社会的に不能な人たちが今ある社会を壊そうとするのは理に適っているし、彼らに同情しないでもない。ただ、「無敵の人」となって通り魔的殺人をするのは勘弁してほしい。巻き込まれるのは嫌なので。小市民的な態度で申し訳ないが、社会的に不能な人はギャルゲーで抜いて平和に滅びていくべきだ。革命を夢見るのはやめてほしいものである。

本作は冒頭が振るっている。ネジ子が脱いだ下着を橋から川に投げ捨てる。すると川には泳いでいる男がいた。男の後ろから日の丸を持った男たちが泳いでいく。さらに、その後は橋の上を日の丸を掲げた楽隊が行進してくる。後ろには学ランを来た若者たちがおり、続いてプロ市民っぽいおじさん・おばさんがついてきている。彼らの目的は分からない。ネジ子の脇を意味不明な政治が通り過ぎて行く。ネジ子は男とセックスすることしか頭にないから彼らに巻き込まれることもなく、ただすれ違うのみ。それは運動家と一般人のすれ違いを示唆しているように見えた。

24歳の田村正和が重要な役どころで出演している。彼のことは『古畑任三郎』でしか見たことがなかったから新鮮だった。顔も声もいまいち面影がなく、俳優としても印象が薄い。ここから古畑任三郎に成熟していったのが信じられないくらいだ。おそらくは相当な研鑽を積んだはずで、歳を取るのも案外悪くないと思う。