海外文学読書録

書評と感想

大島渚『日本春歌考』(1967/日)

日本春歌考

日本春歌考

  • 荒木一郎
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★★★★

大学受験のために学生たちが上京してくる。中村豊明(荒木一郎)、上田秀男(岩淵孝次)、丸山耕司(佐藤博)、広井克巳(串田和美)の男子4人。里美早苗(宮本信子)、金田幸子(吉田日出子)、池上智子(益田ひろ子)の女子3人。彼らは先生の大竹(伊丹一三)と居酒屋に行く。一方、男子たちは受験番号469番の女子(田島和子)が気になっていた。

この頃は日活もエロを織り交ぜてくるようになったが、本作についてはエロというよりは性である。政治と性を青春映画のメロディに乗せているのだ。ただ、やっていることはぶっ飛んでいるのに、根は真面目なのだからびっくりする。サービスとしてのエロではなく、民衆の抑圧された声としての性。もっと踏み込めば、日本人のアイデンティティとして捉えることもできるだろう(日本人の多くは農民の子孫だ)。内容としてはかなり左翼っぽいが、実は左翼ほど日本について真剣に考えている者はいないのではないか。そう思わせるほど政治と性に対して一途である。

春歌が民衆の抑圧された声だとすれば、性表現を規制しようとする勢力は民衆の敵だと言える。日本には矯風会の流れを汲んだフェミニストが勢力を拡大しており、彼らは漫画・アニメの性表現やAV・風俗などのポルノを規制しようとしている。家父長制のパターナリズムを批判する彼らは、自身が家父長となってパターナリズムを推進しているのだ。発想としては中国共産党の一党独裁に近い。民衆の声を無視して自分の思い通りに世の中を変えたいのである。性表現は表現の自由の最前線であり、これが死守できないなら影響は政治や思想についての表現にも及ぶだろう。規制がエスカレートとしてフェミニズムを批判する者は死刑といった世の中になりかねない。一つ妥協したらなしくずし的にすべての自由が奪われてしまう。現代人が性について考えるとはそういうことなので、我々はもっと性表現と真面目に向き合うべきだ。民衆の抑圧された声として、日本人のアイデンティティとして、性表現は目の前に存在している。

本作の春歌には対立する存在が2つある。1つは日本の紀元節で、もう1つは欧米のプロテストソングだ。日本の紀元節は真実を覆い隠す。天皇家が朝鮮人の家系という事実を。引いては日本人が朝鮮人の子孫であるという事実を。紀元節というフィクションによって日本人は間違ったアイデンティティを与えられた。一方、欧米のプロテストソングは優等生の綺麗事であり、若者が内に抱えるエネルギーを抑圧する。みんなが輪になってプロテストソングを歌っても何も変わらない。そんなのでベトナム戦争は終わらない。本作の翌年に東大紛争が勃発することを考えると、この対立の様相は興味深いものがある。

青春映画としては男子学生のバカさ加減を余さず描いているところが微笑ましい。おそらく彼らは童貞で、だからこそ女を見ては性的な妄想を膨らませている。たとえるなら旅館の女風呂をこっそり覗き見するようなタイプだ。そういったガキ臭さがある一方、不慮の死に直面しても彼らは動じない。女子学生たちが涙に暮れているのに対し、彼らは落ち着いているどころか冷淡である。このギャップがいかにも男子という感じだった。