海外文学読書録

書評と感想

ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』(1970/伊=仏=独)

★★★★

1938年。哲学講師マルチェロジャン=ルイ・トランティニャン)はファシズムに傾倒して組織の一員になった。彼は少年時代、青年リーノ(ピエール・クレマンティ)にレイプされかけて射殺したというトラウマがある。マルチェロは組織にパリへ出張するよう命じられ、ブルジョワの婚約者ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)を伴って向かう。目的は反ファシズムの亡命者クアドリ教授(エンツォ・タラシオ)の身辺調査だった。クアドリには若妻アンナ(ドミニク・サンダ)がいる。マルチェロとアンナはいい感じになり……。

原作はアルベルト・モラヴィア『同調者』【Amazon】。

ファシズムに傾倒した人間の一つの類型を示していて面白かった。組織の人間によると、ファシストに協力する動機は恐怖か金だという。根っからのファシズム信奉者はいない。マルチェロも信奉者ではなかった。では恐怖か金かと言ったらそうでもなく、彼は正常さ求めて組織に入ったのである。彼は少年時代にレイプ犯を射殺したトラウマから正常さに拘るようになった。女との性生活、ブルジョワ女との結婚。世間の規範に従うことで安心するようになった。マルチェロは自分と似た人間に紛れ込むことが好きなのだ。彼の基準からすれば当時の正常はファシズムである。イタリア国民はムッソリーニを支持している。みんなと同じ選択をしていれば間違いない。周囲に溶け込こもうとして誤った判断を下すところはいかにも大衆である。

何が異常で何が正常かは現在の支配的な価値観で変わる。当時のイタリアでは同性愛は異常だったし、反ファシズムも異常だった。正常なのは異性愛であり、ファシズムである。多数派だから正しい。多数派だから支持する。こういう手合いは確固たる信念を持たず、ただ周りに流されているだけである。マルチェロはクアドリを殺害したくなかったが、監視人に圧をかけられて黙って従ってしまった。また、懇意にしていたアンナを助けたかったが、車の中で微動だにせず見捨ててしまった。このように彼に主体的な意思はない。ただ状況に流されているだけである。彼の徹底した信念の欠如はおぞましいが、実は我々だって大差ないのだ。日本人も戦時中は翼賛的な体制を支持していた。天皇陛下万歳と叫んでいた。マルチェロと同じく状況に流されていたのである。事実、敗戦後はあっさり戦後民主主義に鞍替えした。何食わぬ顔で。その時その時の支配的な価値観に黙って従う。それが我々大衆なのである。

こういった無責任の体系が日本だけではなく、イタリアでも見られたのは興味深い。戦時中は消極的にファシストを支持していたのに、いざムッソリーニが失脚したら大喜びで街に繰り出す。自分たちはファシストに抑圧された被害者だと規定しているのだ。我々はあくまで全体の意思に従っただけに過ぎない。そうやって責任から逃れている。

社会学者の上野千鶴子は『生き延びるための思想 新版』【Amazon】で次のように述べている。

敗戦ドイツのシンボルはアウシュヴィッツであった。したがって戦後ドイツは加害者性から出発するほかなかったが、他方戦後日本の出発点は「受難のシンボルとしてのヒロシマ」だったから、日本では「加害性」の代わりに「犠牲者性」が構築された。(p.141)

マルチェロの精神も「犠牲者性」で構築されている。彼がファシズムに傾倒した理由が少年時代のトラウマにあったのだから。彼は被害者なのである。ところが、そのトラウマの根拠となるものがラストで突き崩されてしまった。罪を正当化する理屈が剥ぎ取られてしまった。責任に直面したマルチェロは錯乱するほかなく、自分を棚に上げて他者の罪を糾弾している。この残酷なラストが心に沁みる。