★★★★
夫の七回忌を迎えた未亡人の秋子(原節子)には24歳の娘・アヤ子(司葉子)がいる。夫の友人である間宮(佐分利信)、田口(中村伸郎)、平山(北竜二)の3人はアヤ子の縁談を気にするのだった。間宮はアヤ子に後藤(佐田啓二)を紹介する。ところが、アヤ子は母が一人になるのを気にして縁談を受けない。そこで間宮たちは秋子を再婚させようとする。
『晩春』を換骨奪胎した映画。共依存の切迫感に満ちた『晩春』に比べると、本作は随分と余裕のある雰囲気である。『晩春』よりも喜劇としての色彩が濃厚で、特に3人のおじさんたちの空回りと百合子(岡田茉莉子)の大立ち回りが楽しい。ややもすると軽薄になりがちだが、そこは原節子がどっしりと構えていて重しになっている。個人的には『晩春』のほうに軍配を上げるが、本作みたいに肩肘張らずに見れる映画も悪くない。ちょうどいいユーモア感覚がツボで小津安二郎の映画が好きになってきた。
物語はいつもの結婚話であるが、おじさんたちが余計な策を巡らせることで主要人物が勘違いし、事態が複雑になるところはウッドハウスを彷彿とさせる。こういうのは喜劇の基本なのだろう。結婚は人間関係の極北だからこういった間違いの喜劇が様になる。秋子が知らない間に自分の結婚話が進行しているところが面白いし、その結婚話が一時的に秋子とアヤ子の仲を裂いてしまうのだからやりきれない。おじさんたちは静かな池に石を放り込むトリックスターだ。重役みたいな顔をしてやっていることが幼いのである。しかし、昭和の人間関係とはこのようなお節介によって成り立っていた。隣の娘さんが適齢期を迎えた。なら縁談を持っていってやろう。個人主義が進んだ現代からすると余計なお世話に見えるが、しかしこれこそが昭和の人情だったのだ。鬱陶しいと言えば鬱陶しい。でも、こういったお節介も捨て難い。何かを得たら何かを失うのが世の常だが、我々は日常の快適さと引き換えに庶民の美風を失った。
小娘の百合子がおじさんたちを相手に一歩も引かずに渡り合っている。この様子が微笑ましかった。おじさんたちはみな社会的な立場が高いし、間宮に至っては迫力のある面容である。並の男だったらびびって敬語を使ってしまうだろう。なのに対等に接してしまうのだから半端ない。いつの時代も現代っ子は恐れ知らずなのだ。こういうのを見ると、戦後はフェミニズムとは関係なく女性の力が強くなったのだと感心する。戦後民主主義によって封建制度が解体し、人々は自由になった。その象徴が百合子である。
『晩春』も本作も、娘が欠落した家族を埋めようとしたため事態が拗れてしまう。すなわち、残された親が心配だから嫁入りしない。もし両親が揃っていたらこういうドラマにはならなかったはずだ。結婚しても配偶者が亡くなったら途端に孤独になってしまう。これって核家族の致命的な欠陥ではなかろうか。平均寿命は男性よりも女性のほうが長いので、女性にとっては切実な問題だと思われる。