海外文学読書録

書評と感想

カール・テオドア・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928/仏)

裁かるゝジャンヌ (字幕版)

裁かるゝジャンヌ (字幕版)

  • ルネ・ファルコネッティ
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★★★★

1431年1月9日。ルーアンジャンヌ・ダルク(ルネ・ファルコネッティ)が異端審問にかけられる。審問官はジャンヌを火刑にすべく質問に罠を仕掛ける。やがてジャンヌは拷問室に連れて行かれ……。

元々はトーキーで撮る予定だったが、大人の事情でサイレントになったらしい。結果的にはトーキー黎明期の半端な技術を使わず、サイレントの成熟した技術で制作したのが良かった。というのも、そのほうが映像に集中できるので。本作はルドルフ・マテの撮影が光っていて、クローズアップと少し引いたショットのメリハリが印象的だった。ジャンヌがやたらと涙を流しているのはどうかと思ったが、これだけ顔を大写しにされると迫力があると言わざるを得ない。モノクロだからこそ映えるところもあって、これがカラーだったら執拗なクローズアップに耐えられなかっただろう。現代のように画質が良すぎるのも考えものなのだ。そして、ルネ・ファルコネッティの演技はある種の崇高さを感じさせるもので、画面には間違いなく中世が映っていた。彼女の憂いに満ちた顔を見ると、殉教者とはこういうものだろうと思わせる。惜しむらくはやたらと涙を流しているところで、これがどうにも作為的に見えて仕方がなかった。女の涙ほど胡散臭いものはない。

法律と宗教はどちらもフィクションであることが共通している。両者には人を裁くためのルールがあり、人を信仰させるための理論体系がある。国民国家に住む我々は法律を無謬だと思わされているし、敬虔な信者は宗教を無謬だと思わされているが、もちろんそんなことはない。日本人からすれば北朝鮮の法律は間違っているし、キリスト教徒からすれば仏教の教えは間違っている。つまり、法律と宗教の正しさは限定的なのだ。どちらも自分が所属するコミュニティでしか有効ではない。言ってみればローカルルールである。海の向こう側では正しいことが、こちら側では罪だとされる。本作の悲劇はキリスト教というローカルルールで裁かれるところにある。

ジャンヌは神と直接繋がっている。それが審問官には気に食わない。なぜなら神と人の間には教会が入ってないといけないから。神と人が直接繋がったら教会の権威が揺らいでしまう。教会が民衆の上に君臨するためにも、神の啓示を受けたジャンヌを許すことはできないのだ。教会は自分たちが用済みになるのを恐れている。聖職とは名ばかりの保身に恐れ入るが、宗教改革以前のヨーロッパ社会とはこういうものだった。教会権力が自分たちの既得権益を守るために強権を振るっていたのである。もしこの時代にキリストが再臨したとしたら、彼も異端審問で裁かれて火刑に処されていただろう。教会は神と人が直接繋がるのを許さない。たとえば、小説だと作者と読者の間に出版社が挟まるが、それがカトリックだと神と人の間に教会が挟まる。いつの時代も余計なものが挟まることで民衆は中間搾取されているのだ。それが中世のような宗教社会だと生死に直結するから厄介である。

本作はジャンヌの弱さに焦点を当てているが、ジャンヌが自ら火刑を望む場面は史実とかけ離れている。実際は署名の撤回をしていなかった。この意図から察するに、監督はジャンヌをフランスの誇りとして描きたかったのだろう。この時代にヒロイックなプロパガンダ映画が作られていたとは意外だった。