海外文学読書録

書評と感想

ジャン=リュック・ゴダール『女と男のいる舗道』(1962/仏)

★★★

パリ。女優志望のナナ(アンナ・カリーナ)が別れた夫ポール(アンドレ・S・ラバルト)とカフェで話し合う。色々あって娼婦となったナナはラウール(サディ・ルボット)をヒモにする。

カメラワークと編集と音の使い方が面白い。でも、監督自身が後で振り返ったら恥ずかしくて顔が真っ赤になりそうではある。若気の至りというか。見ている方はちょっと素人っぽくてちょっと気取っているところが可愛いのだが、それは時と共に風化したからそう言えるわけで、本人としては未熟な習作という意識が強そう。当時は斬新だった表現が客観的にも主観的にも古くなる。それも急速に。こういうのは実験的な作風でデビューした人の宿命だろう。

映像で面白かったところ。冒頭の別れた夫婦の会話。ナナとポールはカフェのカウンターに横並びで腰掛けている。話している最中、カメラは一人ずつ背中だけ映していた。ピンボールをするところでようやく一つのフレームに入る。のっけから攻めている。ナナが映画館で『裁かるるジャンヌ』を見ているシーン。映画の極端なクローズアップに合わせてナナの顔もクローズアップしている。『裁かるるジャンヌ』がゴダールの映画と同調しているところが面白い。ナナと男(誰だか忘れた)の会話。男の背中を中心にしてカメラを左右に動かしている。中央のアングルだとナナの姿が隠れ、左右に動くとナナの顔が見える。これに限らず、会話のシーンは切り返し以外何でもやってるような気がする。逆に言えば切り返しだけやってない。ナナが指を使って自分の身長を測るシーン。仕草がとてもチャーミングだった。終盤でナナとラウルがイチャイチャするシーン。今ではありふれたカット繋ぎだが、当時はこういうのがなかった。発想が新しくて面白い。

物語は女優志望のナナが娼婦になるのが軸だが、こんな美人が娼婦になるなんて現実離れしている。これだけの美貌なら町でスカウトされて女優なりモデルなりになっていただろう。それもそのはず、演じているのがアンナ・カリーナであるうえ、監督はこの女優を可能な限り美しく撮ろうとしている。だから娼婦に見えない。そもそも自分の妻に娼婦を演じさせるところにゴダール諧謔がある。まるで自分で自分をコキュにしているようなものだ。しかし、監督は妻をガチの娼婦として描こうとしない。映っているのは映像として映えるような美しい娼婦である。ガチの娼婦とは『肉体の門』に出てくる芋っぽい女たちであって、本作のアンナ・カリーナではない。アンナ・カリーナは娼婦の記号として借り出され、娼婦の記号としてそれっぽいことをしている。

ラストでわざとB級映画っぽくしたのは監督の気取りなのだろう。まるで終わらせるために拵えたような安っぽい殺人シーン。少なくとも真面目に作ろうとしていない。我々はこの取って付けたような映像にヌーヴェルヴァーグの精神を見る。ヌーヴェルヴァーグも結局は作り手と受け手の共犯関係で成り立っているのだ。現代人の目だとそれがクリアに見える。