海外文学読書録

書評と感想

ベルトルト・ブレヒト『ガリレオの生涯』(1957)

★★★★

ヴェネツィア。教職に就いていたガリレオ・ガリレイは、金のためにオランダで販売されていた望遠鏡をパクって大学に売り込む。彼はその望遠鏡を使って研究し、堂々と地動説を唱えるのだった。ところが、教皇庁から物言いがついて研究を破棄する。その後、天文学者教皇になったため、ガリレイは再び地動説の研究に着手するが……。

何千年もの間「信仰」が鎮座していたところを、いまや「疑い」が占拠しているのさ。世界中が言っているんだ、本に書いてあることでも、自分の目で確かめようって、ね。絶対の権威と思われた真理が肩叩きにあい、一度も疑われなかったことが、疑われ始めている。(Kindleの位置No.108-110)

戯曲。全15景。

何事も世界を発展させるのは「疑い」の精神だけど、これは「信仰」とすこぶる相性が悪い。というのも、「疑い」の眼差しは教会の権威に向けられるからだ。ひとたび権威が疑われたら最後、民衆を支配することができなくなってしまう。教会はそのことを自覚していたから、カトリックの価値観に背く研究をひとつずつ潰していった。その中にガリレイの地動説も含まれているわけである。反抗の芽を「疑い」の段階で摘んでおく。古今東西、宗教を信じるのは愚か者と相場が決まっているけれど、一方で宗教を支配のツールとして使っている人間はずる賢い。どうすれば自分たちの地位が安泰なのかを理解している。結局のところ、これはゲームなのだ。定められたルールの中でいかにして出世し、権力を行使する立場までのし上がるか。教会は世界を自分たちの偏狭な宗教観の中に押し込め、その体系の中で人類が生活するよう強いている。そして、「疑い」とは既存のルールを破壊するものだから看過できない。「信仰」という発展性のない秩序を守ることが、千年王国の存続には不可欠なのである。

ただ、「疑い」の精神を無邪気に称揚できるかといったらそう簡単でもなくて、たとえば20世紀に入ってからは反知性主義がのさばってきたから難しい。「知性」が「信仰」に取って代わった結果、今度は知的エリートが疑われることになったのだ。「疑い」とはその性質上権威に向けられるものだから、その時代に権威と見なされているものが対象となる。17世紀はそれが「信仰」だった。そして、20世紀にはそれが「知的エリート」になった。日本でも昭和の一時期までは教養主義が幅をきかせていたけれど、それが崩壊したのもサブカルチャーという「疑い」の文化によってだった。いつの時代も権威は槍玉に挙げられる。その結果、今度は別の事物が権威に祭り上げられる。最近はこのサイクルが短くなっていてついていけないなあと思う。

異端審問を前にしたガリレイは自分の学説をあっさり撤回する。そして、そのことを弟子に非難される。弟子はガリレイに英雄になってほしかったのだ。ところが、その後もガリレイは監視の目を盗んで自分の研究を続行し、最終的にはその成果物を弟子に託している。信念に殉じて死ぬことだけが英雄の道ではない。面従腹背に徹して後世に仕事を残すことも大切だ。この辺は中国の司馬遷に似ていて親近感がわいた。

なお、原題はLeben des Galileiガリレイの生涯)だが、既訳との差別化を図るためか、本書のタイトルは「ガリレオの生涯」になっている。