海外文学読書録

書評と感想

蔵原惟二『不良少女 魔子』(1971/日)

★★

魔子(夏純子)たち不良少女6人は一般人からカツアゲしたり、ゴーゴークラブでダンスをしたり、人生をエンジョイしていた。魔子の兄・田辺(藤竜也)は安岡組の組員で、その力を背景に好き勝手している。ある日、魔子たちは秀夫(清宮達夫)を始めとした男子4人のグループに因縁をつける。色々あって魔子と秀夫は愛し合うのだった。

『八月の濡れた砂』との併映で、同作と共にロマンポルノ移行前の最後の作品となった。両方見て思ったが、どちらも現代を舞台にした青春映画なのが興味深い。スターシステムは崩壊したものの、日活は最後まで若者に映画を供給してきたことが分かる。

昔の映画を見ると不良たちの見た目が派手じゃないから驚く。ほとんど一般人と変わらない。今みたいにギンギンにメイクした不良は80年代の産物なのだろう。10人も不良がいて誰一人金髪がいないのはすごいことだ。強いて言えば女性陣のファッションがちょっと変わっているが(『ジョジョ』っぽいというか)、これは当時の流行なのか、あるいは映画用にしつらえたファンタジーなのか判別できない。原宿ならこういう人たち普通にいそうな気がする。また、現代の不良は格闘技を習っている輩が多いが、この時代はそうでもない。ケンカのシーンを見ても素人丸出しである。カツアゲするときもただ人数で圧倒しているだけ。総じて現代人がイメージする不良と全然違うところに時代を感じる。

物語は魔子のブラザーコンプレックスが軸になっている。魔子は兄のことが好きだから構ってもらいたい。ところが、兄は組のことを優先して妹のことを蔑ろにしている。組は自分たち不良少女グループをマリファナの運び屋として利用するだけだった。魔子にとってはそれがやりきれない。だから兄と利害が対立する秀夫に味方した。魔子と秀夫は愛し合うが、同時にこれは兄への当てつけでもある。魔子は己の本能に従っただけだった。ところが、その選択が彼女を矛盾した立場に追い込んでしまう。兄を庇ったら秀夫が助からないし、秀夫を庇ったら兄が助からない。両方丸く収めることは叶わず、物語は悲劇へと転がっていく。

物語開始時点から状況が悪化してそれが元に戻ることがない。『ネオン警察 ジャックの刺青』のレビューでも触れたが、これが当時の若者に刺さったのだろう。日活アクション映画のひとつの伝統芸でもある。特にこの時代はアメリカン・ニューシネマが流行っていたからより強く意識したのではないか。アメリカン・ニューシネマとはすなわち「覆水盆に返らず」のことであり、一度何かが起きると大抵は底まで落っこちる。本作の場合、魔子が秀夫と関わったのが運の尽きだった。もし関わらなかったら今まで通りカツアゲやダンスに勤しむことができただろう。どうやら運命の分岐点というのは存在するようである。未来のことは誰にも分からないから怖い。この時期の映画を見るたびに痛感する。

全体的にしょうもない映画だったがラストは良かった。やってしまった後の放心状態をリアルに表現している。大勢の人にごちゃごちゃ言われながら拘束される。犯罪者だったら我がことのように実感できるかもしれない。