海外文学読書録

書評と感想

蔵原惟繕『硝子のジョニー 野獣のように見えて』(1962/日)

★★★★

稚内。貧しい漁師の娘・みふね(芦川いづみ)は白痴だった。そんな彼女が女衒の秋本(アイ・ジョージ)に売られる。途中で逃げ出したみふねは列車の中でジョー(宍戸錠)という男に助けられる。ジョーは競輪の予想屋だった。色々あってみふねはジョーのところに身を寄せる。一方、ジョーは競輪選手の宏(平田大三郎)を親身になって育てていたが……。

フェデリコ・フェリーニの『道』を下敷きにしている。

宍戸錠はザンパノに寄せすぎだし、芦川いづみはジェルソミーナに寄せすぎだが、『道』よりも人間関係を複雑化してテーマを掘り下げているところが良かった。芦川いづみも白痴の役を好演している。本作のテーマは見捨てる・見捨てられるの関係だが、そこにピリオドを打ったのが芦川いづみであるところがいい。2人の男が反対方向に別れるラストは余韻がある。『道』と同じかそれ以上にいい映画だった。

人間関係の怖いところはそれぞれが利己的であるところだ。つまり、みんな自分の利益や感情が一番だということ。各自自分のために行動することで別の誰かにしわ寄せが行くことになる。

ジョーは宏に入れ込んでいたが、宏はそんなジョーを見捨てた。なぜなら女ができたから。しかもその際、ジョーは宏のために金策し、自分を慕ってくれたみふねを旅館に売り飛ばしている。ジョーは宏に見捨てられた。それと同時にみふねのことを見捨てた。ジョーは被害者であると同時に加害者でもある。一方、踏んだり蹴ったりなのがみふねだ。彼女はジョーのエゴイズムに翻弄されてまた売春の道に戻っている。また、みふねは秋本との関係においても同様の被害者になっている。秋本は女に見捨てられた過去を持つが、にもかかわらず自分を慕ってくれたみふねを見捨てた。秋本も被害者であると同時に加害者になっている。この時点でみふねだけが誰のことも見捨ててない。それどころかみんなから見捨てられっぱなしだ。誰も彼もが利己的に振る舞ったゆえに一人の女が孤独になる。誰からも必要とされない人間の悲しみがここにある。

本作は最終的に悲しい結末になるが、それでもみふねがジョーと秋本に必要とされるところは救いがある。ただ気づいたときにはもう遅かった。ジョーと秋本に共通しているのは視野が狭いところである。こうと思い込んだらそこに全力で突っ込んでいく。つまり、ジョーだったら宏、秋本だったら女だ。その際、側にいるみふねのことは気にかけない。あるいは気にかけたとして優先度を下げてしまう。それまでみふねは誰の一番にもなれなかった。家族にも見捨てられ、ジョーにも見捨てられ、秋本にも見捨てられた。ところが、最後の最後に2人の男の一番になれた。我々はその喜びを苦味と共に噛みしめるのである。波が寄せてくる浜辺を見ながら。見捨てる・見捨てられるの関係が重層化した本作において、この瞬間は間違いなく『道』の叙情を超えていた。

芦川いづみは美人のわりに悲劇的な役どころが多いが、ここまで思い切った演技をしたのは初めてではなかろうか。あるいはキャリアの中で唯一かもしれない。俳優というのはただ顔がいいだけでは務まらない(声がいいだけで声優が務まらないように)。演技力あってこその俳優だということを思い知らされる。