海外文学読書録

書評と感想

舛田利雄『完全な遊戯』(1958/日)

★★

大木壮二(小林旭)は戸田(梅野泰靖)をリーダーとする学生グループとつるんでいた。彼らは遊び感覚で犯罪を計画する。電話のタイムラグを利用して競輪のノミ屋から大金をふんだくろうという算段だ。計画は見事成功するが、ノミ屋の松居鉄太郎(葉山良二)は半分しか金が払えない。業を煮やした学生グループは鉄太郎の妹・京子(芦川いづみ)を誘拐する。

原作は石原慎太郎の同名小説【Amazon】。

犯行の様子は現代人が見てもあまり面白くないような気がする。ノミ屋が時間通りに締め切らないのが悪いじゃんとなるし。とはいえ、最速で現場に情報を伝えようという工夫は凝らされており、ちゃんと実行可能な計画を描いているところは評価すべきだろう。実際にこういうノミ屋があったら悪用できそうである。犯行は計画・準備・実行と思ったよりも尺を取っていて、そこは冗長だったかもしれない。牧歌的な時代の牧歌的な犯罪なんて見ていて面白いものでもないので。本作の真骨頂は倫理観の欠如した学生たちの素描にあり、それはおいおい描かれていくことになる。

学生グループは死人が出ても反省の色がなく、喧嘩別れした壮二に就職の斡旋を頼むくらい面の皮が厚い。罪悪感に苛まれている壮二とは正反対である。彼らは自分たちが豚箱に入らなかったことを喜んでいた。誘拐した女が自殺したうえ、リーダーが刺殺された。にもかかわらず、この態度である。ここまで倫理観が欠如している理由は彼らが徒党を組んでいるからだろう。つまり、赤信号みんなで渡れば怖くないの心理だ。個人個人は小さな悪にしかすぎないが、集団を形成することで大きな悪になってしまう。「有害な男らしさ」が増幅されてしまう。小規模レベルでは振り込め詐欺グループがそれに該当するし、大規模レベルではナチス・ドイツがそれに該当する。どちらも名の知れた犯罪組織だ。人間は徒党を組まないと生きていけない。しかし、徒党を組むと個人の持つ「悪」が雪だるま式に増えてしまう。集団生活を営むことは人類が抱えた宿命だが、それには良い面と悪い面がある。

本作で一番良かったのは壮二と京子のデートシーンだ。壮二は学ランを着た大学生。京子はデパートで働く社会人である。京子がお姉さんみたいな態度で壮二に接しているところがポイント高い。そして、そんな2人が遊園地に行って回転椅子に乗る。壮二がびびった表情をしているのに対し、京子はすまし顔である。男だったら誰でも年上のお姉さんにリードしてもらいたい。それが芦川いづみみたいな美人だったら最高だ。デートシーンは子供の壮二と大人の京子という組み合わせが良かった。

演出面で良かったのが冒頭の麻雀シーン。4人が麻雀卓を囲んで会話している。話者の顔をクローズアップし、そのショットを次々と切り替えていく。ひとしきり顔を映した後は離れた場所に視点が移り、カメラが4人の周りをぐるぐる回る。最後は真上からのショットで締めた。総じてカット割りとカメラワークが光っている。冒頭だけ見ると面白そうな予感がするが、その後はデートシーン以外ぱっとしなくて退屈である。