海外文学読書録

書評と感想

チャン・ジョンイル『コリアン・サラリーマンの秘密の生活』(1994)

★★

ソウルのナムソン・グループに勤めるサラリーマンの「彼」。「彼」は家と会社を往復する毎日を送りつつ、余暇には妻とレンタルビデオを見て過ごしていた。「彼」の妻は雑貨屋の長女であり、「彼」が学生だった頃、公衆便所*1として名を馳せている。「彼」は美人の妹に惚れていたものの、ある理由からブスの姉と結婚したのだった。退屈な日常を送っていたある日、妻の妊娠が判明する。

妊娠5ヵ月目に入ってから、妻は急にお腹がせり出し始めた。妻のお腹の膨れ方の突然さときたら。「それは何かの悪い病気じゃないのか?」と訊きたくなるほど異常に見えた。故に彼は、(妻のお腹の子供は双子かもしれないな)と考えたりしたが、"妻は双子を産むかもしれない"との想像は彼をゾッとさせた。なぜなら、彼は絶対に妻を妊娠させることがないように、自分の体の一部を人為的に性的不能状態にしておいたからだ。その理由たるや、"彼は妻を愛していない"からだが、それ以上に大きな理由は"妻よりも義妹を愛している"からだ。(pp.190-191)

80年代くらいによくあったトリッキーな小説。のっけから「本作には、作者の手による意図的な齟齬やストーリーの混乱があります。読者の皆様におかれましては、決して誤訳・誤字・校正ミスではない旨お含み置きください。」という訳者による注意書きが掲載されている。実際この小説には所々に齟齬があって、十二型テレビがすぐ次の文章では十四型テレビになっていたり、時刻がいつの間にか巻き戻っていたり、妻の妊娠が二ヵ月目なのか三ヵ月目なのか分からなくなっていたりする。一人称の語りだったらこういう表記の揺らぎがあっても不自然ではないけど、この小説は三人称の語りなので何とも奇妙な感じだ。しかも、終盤に入ってからこの傾向はエスカレートしていて、妻の実家が雑貨屋から旅館に変わっていたり、中小企業のナムソン・グループが韓国屈指の財閥になっていたりする。ここまで来ると幻想の世界に片足を突っ込んでいるような感じ。小説内のアイデンティティが思いっきり揺らいでいる。面白いのは、妻の身長・体重・スリーサイズが場面場面で違う数字になっているのに、顔が不細工なところは全く変わらないところだ。どんだけ妻がブスなのを強調したいんだよ、と思ってつい笑ってしまう。

『LIES/嘘』同様、この小説にも『ロリータ』【Amazon】からの引用が見られる。『ロリータ』のハンバート・ハンバートがロリータを傍らに置くためにその母親と結婚するように、本作の「彼」も、美人の妹と繋がりを持つためにその姉と結婚している。「愛する人と同居できないからには、愛する人の親戚と結婚し、愛する人のそばで永遠にとどまろうじゃないか!」(p.149)という決意はなかなか見上げたものだ。しかも、結婚相手がブスの公衆便所なのだから感慨も一入である。「彼」の妻は性格にも問題があって、勝手に実家に送金するわ、大型テレビやベッドを衝動買いするわ、「彼」が帰省するのを禁止するわ*2、読んでいてこいつはたまらんと思った。まったく酷い貧乏くじである。

本作は前衛小説が好きな人向けだろう。韓国のサラリーマンの実態が垣間見える*3ところもアピールポイントだと思う。ただ、若い頃はこういう小説が新鮮に感じられてそこそこはまったけれど、今読むと退屈に感じてしまう。これは読者として成長したのか、それとも退化したのか。いずれにせよ、歳はとりたくないものだと思った。

*1:学生たちを片っ端かラブホテルに連れ込み、その童貞を奪っている。「彼」もお世話になった。

*2:挙句の果てには、妻の親族に尽くすよう命令している。

*3:やたらと飲み会をやりたがる上司がいる、大卒の女性社員が男どもにお茶汲みをしている。一昔前の日本と同じだ。