海外文学読書録

書評と感想

土井裕泰『花束みたいな恋をした』(2021/日)

★★★★

2015年。大学生の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が京王線明大前駅で終電を逃したことで知り合う。他に終電を逃した2人と4人で深夜営業のカフェへ。麦と絹は離れた席に押井守がいることに気づく。そのことで意気投合した2人はサブカルについて語り合う。麦の家に絹が遊びに行くと本棚のラインナップが自分と同じだった。趣味が似ている2人は交際を始めるが……。

坂元裕二脚本。

サブカルに耽溺する洒落臭いカップルに焦点を当てた恋愛映画。青春の終わりを感じさせる内容でせつなかった。こういうのを見ると、カルチャーって金持ちの道楽じゃないかと思う。事実、メディアに出るようなサブカル文化人はみな実家が太い。実家が太いから嫌な仕事をせず、趣味にウエイトを置いて暮らせている。そういう意味で2人は不幸だった。麦は新潟出身の一般家庭だし、絹は都内のプチブルであるものの親が遊んで暮らすのを許さない。生活のために労働するしかないのだった。

麦はイラストレーターで生計を立てたかったがそれも叶わない。仕送りを打ち切られたため就職することになる。労働をしながらイラストレーターを目指すというプランはすぐに破綻し、麦は仕事人間になってしまう。カルチャーにも前ほど興味を示さなくなった。絹はそんな麦を見て失望する。というのも、絹が麦に惹かれたのは同じ趣味を持った魂の双子だったから。それなのに麦のほうが先に現実に目覚めて大人になってしまった。大人になるとはつまり凡庸な人間になることであり、当然のことながら凡庸な人間はつまらないのである。いい大人はサブカルなんかに耽溺しない。バリバリ働いてバリバリ稼ぎ、仕事で自己実現するのが大人というものだ。麦がこうなってしまったのも世間のジェンダー規範が原因だろう。男は仕事に生きてなんぼという価値観。女は専業主婦になって趣味に生きることも許されるが、男はそういう生き方が許されない。世間は男の価値を稼得能力によって測っている。カルチャーに通じていることは何の自慢にもならないのだ。実に世知辛いが、現実とはそういうものなので仕方がない。カルチャーはあくまで趣味であり、趣味を仕事にできるのは一握りの選ばれし者なのである。

付き合った当初、麦と絹が現状維持を目標にしたのが良くない。結婚を前提に付き合うべきだったのではないか。当時は学生だったから仕方がないとはいえ、モラトリアムの延長で恋愛しても幸せになれないだろう。特に女には適齢期があるから早めに決めなければならない。女は歳を取れば取るほど価値が目減りする。妊孕性が下がっていく。それなのにずるずると4年も引っ張ってしまった。2人とも良い思い出が出来たことにして別れているが、見ているほうとしてはもっと計画性を持つべきだろうとやきもきする。とはいえ、若い人間にそれは望めない。現代人はアラサーになってようやく婚活に着手するが、みんな大人になるのが遅いから晩婚化してしまうのだ。昔に比べて今は世間の結婚圧力が弱まった。それが人を幼稚にしている面も否めない。

終盤、ファミレスで別れ話をするシーンが素晴らしい。付き合った当初のときめきが失われたことを説得力をもって表現している。あそこで付き合いたての若いカップルを出したのは神がかっていた。序盤はモノローグが洒落臭くてうんざりしたが、終盤は上手く幕を引いていて本当に良かった。坂元裕二のことが好きになったかもしれない。