海外文学読書録

書評と感想

フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』(1959/仏)

★★★

12歳のアントワーヌ(ジャン=ピエール・レオ)は成績が悪いうえにいたずら好き。教師から注意されたり罰を受けたりする。家では父(アルベール・レミー)と母(クレール・モーリエ)がよく喧嘩しており、母はアントワーヌに対して当たりが強い。ある日、アントワーヌは親友のルネ(パトリック・オーフェー)と学校をさぼった。街に繰り出してみると母が見知らぬ男と抱き合っており……。

子供時代なんて友達同士の関係が世界のすべてで、親子関係なんて大して重要ではなかったと思う。少なくとも僕はそうだった。しかし、本作は子供と大人の非対称な関係にフォーカスしている。そういう意味では昨今の毒親問題に通じるかもしれない。いつの時代も親ガチャというのは存在するのだ。

教師は子供に対して抑圧的だし、母親も子供に対して当たりが強いのだが、それでも体罰をしないところはすごかった。この時代に体罰しないとかちょっとあり得ない。というのも、これより何十年も後に生まれた僕でさえ、母親からよく体罰されていたのである。母親は何かあるとすぐ僕の頭を引っ叩いていた。頭を叩けば素行の悪さも治るみたいな感覚だった。ところが、ある日それが原因で怪我をしてからは一切の体罰がなくなった。それが小学校低学年だったと思う。一方、学校で体罰されたことは一度もない。既に体罰はいけないという倫理観が当たり前だった。ところが、小学4年生のとき、田舎に引っ越して現地のそろばん教室に入ったのだが、そこはまったく別だった。講師が殴ったり蹴ったりするのが当たり前だった。大の男が手加減なしで暴力を振るうのである。教室は暴力の恐怖によって支配されていた。

と、こういう経験があるため、本作で教師や両親が体罰しないことに驚いたのである(父親が一度だけビンタをするが、あれは体罰のうちには入らないだろう)。確かにやさしくはないのだが、それでも一線は越えない。本作の子供時代と自分の子供時代だったら後者のほうが遥かにマシだとは思うが、それでもカルチャーギャップは感じる。

子供というのは大人が作った社会システムの間借り人であって、将来のタックスペイヤーとして従順に育つことを期待されている。だから子供も近代国家のシステムに順応しなければいけない。学校や家庭で規律を叩き込まれ、つつがなく自立することを求められる。成績の良さも行儀の良さも、すべては質の高い労働者になるためだ。落ちこぼれたらたちまち下の世界に送られてしまう。少年といえども、犯罪を犯したら問答無用でベルトコンベアーに乗せられ矯正施設に収容されるのだ。誰も社会システムからは逃れられない。大人は金さえあれば環境を選べるが、子供はどうあがいても選べないのだ。黙って所与の条件(親ガチャ)に従うしかないのである。親ガチャの結果、非行に走ったとしても自己責任として処理される。近代国家がもたらしたのは、はみ出し者を許容しない社会だった。本作を観てその窮屈さに思いを馳せた。