海外文学読書録

書評と感想

J・M・クッツェー『イエスの学校時代』(2016)

★★★

もうじき7歳になるダビードは、シモンとイネスに連れられてエストレージャという田舎町に逃れてきた。シモンとイネスは農園で働き、ダビードは地元のダンスアカデミーに入る。そのアカデミーは独自の思想からダンスに数学を取り入れていた。ダビードはアカデミーの寄宿生になるも、まもなくそこで殺人事件が起きる。

「いつまでも人の親切心に頼って生きるわけにはいかないんだ」シモンはつづける。「人はなにかをもらったら、同じぐらい与えないといけない。そうでないと、不公平になる。公正を欠く。きみはどっちの側の人間になりたい? 与える側か、もらう側か? どっちのほうが良いと思う?」(p.44)

『イエスの幼子時代』の続編。

前作から一貫しているのは「教育」を扱っているところで、ダビードがダンスアカデミーに入るまで紆余曲折がある(入ってからも色々と問題がある)。特に印象的なのが、第3章で家庭教師から数学を教えてもらうエピソードだ。この教師の教え方はなかなか堂に入っていて、数字がいかにして存在するかという根本から教えている。ところが、ダビードにとっては初歩的すぎて気に入らなかったらしい。わざと馬鹿なふりをして追い返している。保護者の2人も、足し算や引き算といったシンプルで実用的なものを期待していた。つまり、この教師は生徒側のニーズを満たすことができなかったのである。僕はこのエピソードを読んで、教育の難しさを思い知った。教育の本質とは、教える側と教わる側の満足度が均衡するところにあるのだろう。一方は学術としての数学を教えたい。もう一方は、実用としての数学を教えてもらいたい。既存の教育制度は、受験を関門に置くことで学問の領域をコントロールしているけれど、本作を読んだらそれはそれで問題があるような気がした。文科省や学校といった公的機関が一方的に学問の領域を決めるのではなく、もっと自由に教育の選択肢を増やしたほうがいいと思う。

教育者としてのシモンはなかなか優れていて、世の中の条理だったり道徳だったりを地に足のついた会話で説いている。彼は理想的な教育者であり、また理想的な父でもあった。しかし、そんなシモンもダビードの質問癖には苦労していて、いくら根気よく説明しても話が通じないダビードに苛立ちを見せてしまう。ダビードは常識に囚われない思考の持ち主だから、とにかくひっきりなしに質問を繰り返すのだ。思うに、ダビードは哲学者に向いているのだろう。世の中の前提を疑い、それを無邪気にぶち壊そうとする態度。子供とは往々にしてそういうものであり、哲学者とは子供の目を持った大人だと言える。

ドン・キホーテ風狂は彼自身を善行に導く。だからダビードの手本になる。シモンのこの理屈には驚いた。確かにドン・キホーテは結果的に善行に向かっているけれど、その動機は狂気に根ざしたものである。なので、それを手放しに称賛していいのかは疑問だ。シモンのように行為の帰結を重視するのは、ベンサム的な立場であると言えよう。どちらかというと僕は、行為の動機を重視するカント的な立場なので、シモンの考えには同意できないのだった。

殺人を犯したドミトリーの裁判は『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】を踏まえたものだけど、僕はこれを読んで植松聖を思い出した。相模原の障害者施設で大量殺人を行い、死刑の判決が確定した植松聖である。ドミトリーは法廷で潔く罪を認め、極刑を望んだことから、高潔な罪人か、それともただの狂人か、周囲の見解が分かれることになった。一方の植松聖も、法廷で心神喪失を否定し、極刑を受け入れている。植松聖は社会に対して哲学的な問題を提起したと僕は思っているけれど、それは公言することが憚れるデリケートな問題だ。この件についてはまた別の機会に語ることにしよう。ともあれ、ドミトリーと植松聖はセンセーショナルな殺人犯であり、それゆえに小説の出来事が身近に感じられたのだった。