海外文学読書録

書評と感想

森田芳光『家族ゲーム』(1983/日)

★★★★

高校受験を控えた次男の沼田茂之(宮川一朗太)のために、両親が家庭教師の吉本(松田優作)を雇う。吉本は三流大学の7年生だった。父親の孝助(伊丹十三)は吉本に対し、茂之の成績が上がったら特別金を支払うことを約束する。一方、母親の千賀子(由紀さおり)は息子たちのことを持て余し気味で……。

原作は本間洋平の同名小説【Amazon】。

森田芳光はたまに突拍子もない演出をするけれど、本作は世界の生々しさを前衛めいた手法で表現していてとても良かった。家庭では円満だかそうでないのだか曖昧な家族関係が繰り広げられ、学校は学校で密室ならではの閉塞感がある。誰かの子供であること、自立していないことはこんなに息苦しいものなのかと恐怖した。家庭だろうが学校だろうが、どこにも逃げ場がないところが恐ろしい。僕はこれを観て、子供時代には絶対に戻りたくないと思った。端的に言って不自由すぎる。

本作で描かれている家庭は典型的な家父長制である。父親が外で稼ぎ、母親は専業主婦として子供の面倒を見ている。これが80年代の模範的家庭なのだろう。しかし、どうやらこの家父長制も揺らぎ始めているようだ。劇中では「金属バット事件」について何度か触れられていて、父親はそれに怯えているようである。自分が息子から金属バットで殴られるのではないか、と。その対策として、彼は息子との間に母親を、さらには家庭教師を緩衝材として挟んだ。一種の防衛機構を作り上げた。本作では家族がテーブルに一列に並んで食事をするシーンが頻出するけれど、これは家族同士で真剣に向き合っていないことを示しているのだろう。父親は子供の反抗を恐れつつも、家父長としての権力をふるっていて、息子に自分の価値観を押し付けている。少しでもいい学校に入り、少しでもいい会社に就職する。そういうレールに乗った人生を息子に望んでいる。まったくもって窮屈な価値観ではないか。こういう抑圧が当たり前の世の中だったからこそ「金属バット事件」が起きたわけで、本作には80年代の闇が詰まっている。

ところで、社会学者の見田宗介は、本作について次のように述べている*1

森田芳光のもう一つのよく知られた作品『家族ゲーム』(一九八三)では、家族という、社会の中の「実体的」なもの、「生活的」なもの、「リアルなもの」の最後の拠点ともいうべきものまでが、この時代のいわば虚構化する力のごときものに、その日常の底からすくい上げられている風景が描かれている。この映画はまた、食卓におけるこの家族の坐る位置の斬新さが話題となった。この家族は食卓において、古典的な家族の食事のようにたがいに対面することがなく、バーのカウンターに一列に並ぶ客たちのように並列して坐る。「だんらん」しないのです。視線は交わることもなくまた支配することもなく、並行している。このような家族は「不自然」だし「非現実的」であるという、古典的リアリズムからの批判もあった。しかしこの時代の日本の家族は、一般にテレビジョンを見ながら食事をするから、坐る身体の配置はともかく、視線の方向も心の配置も、事実上並行的になっています。こういう視線の並行性の具象化された表現として、『家族ゲーム』の食卓は固有のリアリティをもつ。開き直れば、この時代の現実自体の非・現実性、「不・自然性」、虚構性をこそ、この映像は的確に定着しています。(pp.88-89)

見田によると、本作は80年代における家族の虚構性を表しているそうだ。個人的にはいまいちピンとこなかったけれど、当時の世相を知る人の見解として心に留めておきたい。

*1:社会学入門』【Amazon】。