海外文学読書録

書評と感想

藤田敏八『野良猫ロック ワイルド・ジャンボ』(1970/日)

★★★

タキ(地井武男)、ガニ新(藤竜也)、デボ(前野霜一郎)、C子(梶芽衣子)、ジロー(夏夕介)はペリカン・クラブという不良グループを形成して暇を持て余している。彼らは似たようなグループの西部会と小競り合いをしていた。そんな矢先、白馬に乗ったアサ子(范文雀)がタキにある計画を持ちかけてくる。一方、デボは運動場から拳銃と機関銃を掘り出した。

野良猫ロックシリーズ第2弾。

アメリカン・ニューシネマの影響を受けた青春映画である。プログラムピクチャーの枠内で作っているせいかかなり大雑把だった。やんちゃな遊びをしていた若者集団がシリアスな犯罪に手を出して大火傷する。退屈な日常から刺激的な非日常へ越境し、最終的には体制側に蹴散らされる。いつの時代も若者の反抗は敗北する運命にあるのだ。当時の若者は学生運動でそのことを思い知った。一方、現代の若者は無駄だと分かっているから反抗しない。体制側と賢く折り合いをつけている。反抗か服従か。どちらがいいのかは分からない。ともあれ、青春の蹉跌とは様々な形で存在するのであり、こういう映画も時代の産物なのだと痛感する。

前半は青春グラフィティみたいな散漫な構成だが、とにかく当時の若者が退屈だったのが伝わってくる。定職に就かずジープを走らせ、埠頭や浜辺でバカなことをやらかす。見ていて何が楽しいのか分からない。まるで退屈な日常を絵に描いたかのようだ。なぜこんなに退屈なのかと言えば、当時はインターネットがなかったからだろう。VODで映画を見ることもなければ、VTuberの配信に熱中することもない。それどころか、当時はファミコンすらなかった。現代よりも格段に娯楽が少なかった時代である。退屈な日常から刺激的な非日常に越境したくなる気持ちも分からないでもない。当時の若者が体制側に反抗していたのは刺激が欲しかったからだろう。それに対して現代の若者は刺激に晒されているから反抗する必要がない。多様な娯楽によって去勢され飼い殺しにされている。これがいいことなのか悪いことなのかは分からない。いずれにせよ、当時の若者と現代の若者の差が娯楽の多寡によって生じているのは興味深い。

当時流行った学生運動も振り返ればアメリカン・ニューシネマの実演なのだろうが、それにしても、我々が体制側に反抗してもどうにもならないという事実はなかなか悲しいものがある。増税に反対しても増税は決行されるし、銀行強盗をしてもすぐに捕まることは目に見えている。我々にできることはせいぜいSNSで愚痴ることくらいだ。いや、下手したら炎上するので愚痴ることさえできない。多数の眼差しに囲まれた現代人は最初から反抗の芽を摘まれている。耳と目を閉じ、口を噤んで孤独に暮らすことを強いられている。我々にできることといったら娯楽に逃避することくらいだ。そのためのコンテンツならネット上にいくらでもある。この状況が何とも憎らしい。

終盤、カメラはチャールズ・ブロンソンが描かれたマンダムの広告看板を捉える。そこから右にパンして藤竜也を映すのだが、意外にも2人が似た雰囲気だったので面白かった。藤竜也は和製チャールズ・ブロンソン