海外文学読書録

書評と感想

リュドミラ・ウリツカヤ『緑の天幕』(2010)

★★★

スターリンの死からソ連崩壊まで。イリア、ミーハ、サーニャの3人は幼馴染で、長じてからは反体制運動に身を投じることになった。また、オーリャ、ガーリャ、タマーラの3人も彼らの人生に関わっていく。ソヴィエト政府は反体制派に目を光らせ、次々とラーゲリに送っていくのだった。

「僕たちは文学を学んでいるんです!」先生はよく、まるで新しいニュースを知らせるかのようにそう宣言した。「文学は人類が持つ最良の宝です。そして詩は文学の核心で、世界と人類の中にある最良のものすべてが凝縮されています。それは、魂にとって唯一の糧です。みなさんが人として成長できるのか、それとも動物のレベルに留まるのかはみなさん次第なんです」(p.48)

本作は長編の構成をとりながらも、途中から連作短編集のようなエピソード集になっていて、細部の積み重ねによって全体を構築するタイプの小説だった。章によって主体となる人物が異なっているし、また、主要人物以外の脇役にもスポットを当てている。だから全体を貫く明快な筋というのはない。スターリンの死からソ連崩壊まで。それぞれが自分の人生を生き、みな違った結末を迎えている。

思うに、一人の主人公に寄り添った小説はもう時代遅れなのだろう。特定の特権的な人物ではなく、その時代に生きていた人たちを包括的に捉える。それが21世紀文学なのだ。一人の人物だけ追いかけるのは20世紀で終わった。現代文学はたくさんの個人をテクストの網の目に織り込むことで、時代そのものを立ち上げようと試みている。それを達成するにはやはり700ページは必要だったろうし、むしろこれでも抑えたほうだろう。本作を読んで21世紀文学の何たるかを思い知った。

ソ連の反体制派というのはなかなか困難な立場である。彼らは禁止された書物を密かに読み、禁止された文書を密かに流通させている。不自由な世界でささやかな自由を希求していた。しかし、当局に見つかったら尋問されてラーゲリ送りにされてしまう。そういう意味ではアメリカでカウンターを気取っていたヒッピーどもとは対極だ。伊達や酔狂で反体制をやっているわけではない。こちとら命懸けである。イリアがアメリカに渡ったとき、アメリカ文化が表面的であることに困惑していたけれど、それは良くも悪くもアメリカが自由だからだろう。世界には抑圧された体制でなければ生まれない澱みたいなものがあって、ソ連にはそれが日常生活に沈殿している。

作中でKGBの高官が面白いことを言っている。彼によると、19世紀はデカブリストよりも保守派のほうが改革に熱心だった。アレクサンドル2世のときはナポレオンからヨーロッパを解放した。一方、ソ連第二次世界大戦ではナチスからヨーロッパを解放し、現在ではロシア史上もっとも国が強くなっている。だから反体制派がやっているのはバックラッシュなのだ――。これは一考の価値があるだろう。国の発展と引き換えに個人の自由を奪う。資本主義国家でもそういう傾向はあるけれど、共産主義国家とは違って制度化はされてない。制度上は自由である。しかし、自由であるがゆえに格差が広がり、貧困層は生存の危機に脅かされている。みんな不自由でみんな貧乏の共産主義国家がいいのか。それとも、表向きは自由で貧富の差が激しい資本主義国家がいいのか。新自由主義の洗礼を浴びた今となってはどちらがいいのか分からない。

ところで、反体制派のある人物が次のように述べている。

文学に関しては、個人的に関心があるのは詩とSFだね。SFは世界で起きてる出来事を芸術的な方法で総括して、興味深い展望を示してくれる。西欧の現代SFは、未来学、未来の哲学さ。(p.541)

SFは個人的な理由からすっかりご無沙汰だったけれど、ここまで言われたら読むしかないなと思った。