★★★★
〈侍女〉のオブフレッドが赤ん坊を連れて逃亡してから15年後。権力の中枢にいる小母リディアは、危険を犯しながら図書館で手記を認めていた。ギレアデ共和国では、オブフレッドの連れ去った赤ん坊が〈幼子ニコール〉としてプロパガンダの対象になっている。同じ頃、カナダではデイジーという少女が暮らしていたが、ある日、彼女の両親が何者かに殺されてしまう。事件にはギレアデ共和国の諜報機関が関わっており……。
公園のひとつにはブランコがあったけれど、スカート姿で乗ったら、風で裾がめくれ、中が見えかねないから、ブランコに乗るなんて不埒なことは考えてもいけない。そういう自由を味わえるのは男の子だけだった。宙に舞いあがり、急降下できるのは、男の子だけ。空を飛べるのは男の子だけだった。(p.25)
同じフェミニスト文学でも、『パワー』や『声の物語』 に比べたら格段に面白く、さすがアトウッドは年季が違うと感心した。
ギレアデ共和国はキリスト教原理主義に基づいた全体主義国家であり、サウジアラビアやイランを過酷にしたような体制である。当然のことながら男尊女卑の社会で、〈侍女〉が「産む機械」、〈妻〉が男性の正式な配偶者、そして、〈小母〉が聖職者と宦官を兼ね備えた役職になっている。今回はこの〈小母〉がキーパーソンになっていて、ダムが決壊するきっかけを作るのだった。小母リディアは、権力闘争を勝ち抜いて体制の頂点にまでたどり着いている。そこに至るまでには鉄血にして冷血な決断を下しており、人の命を奪うことも厭わなかった。しかし、そんな彼女も最初からギレアデ共和国に染まっていたのではなく、旧アメリカ合衆国の時代は判事をしていたことが明かされる。そして、クーデターによって過酷な通過儀礼を迫られていたのだった。生き延びるために新しい体制に順応する姿勢は苛烈で、ここから権力の階段を登っていく気分はどうだったのか察するに余りある。元々持っていた価値観からしたら、ギレアデ共和国に協力するのは犯罪に加担しているようなものだから。けれども、体制内に自分の居場所を確保してもなお、初期衝動を忘れなかったところは感動的だ。ここで示された人の意思の強靭さは目をみはるものがある。端的に言って、小母リディアは英雄であり、彼女は『史記』【Amazon】に出てきそうな人物だ。たとえ私情から来るものとはいえ、命懸けで大義を成すその姿勢は読者に希望を与えるものである。一人の人間がいかにして全体主義国家に立ち向かうのか。不寛容が世界を覆うこの時代、『侍女の物語』にこういう形でケリをつけたのには納得がいった。
夫婦の間に子供がいるとして、それが〈侍女〉から産まれたのか、〈妻〉から産まれたのかで差別意識があるのはいかにも人間社会だと思う。ギレアデ共和国では放射能の影響で子供を産めない女がたくさんいる。だから、健康な女を「産む機械」として男に供している。それなのに〈侍女〉は身分が低く、不特定多数の男と寝ることから「ふしだらな女」と呼ばれている。しかも、普段は不可触民扱いなのに、妊娠すると一転して特別扱いになるのだから現金である。この辺は日本の穢多非人に通じるものがあって、人間社会の不条理は洋の東西を問わないと痛感する。
途中で血のモチーフを連鎖させていくところが面白かった。まずは針仕事での些細な出血から始まり、続いては初潮を迎え、その当日には〈侍女〉が出血多量で産褥死する。言うまでもなく、ここでの血のモチーフは女性性を表している。これが女性の宿命だと考えると、「自分は男性に生まれて良かった」と不覚にも安堵してしまう。