海外文学読書録

書評と感想

マーガレット・アトウッド『侍女の物語』(1985)

★★★

クーデターによってアメリカに誕生したギレアド共和国。そこはキリスト教原理主義によって支配されたディストピアだった。司令官に仕える侍女のオブフレッドは、子供を妊娠するために主人と奇妙なセックスを強いられている。そんななか、彼女は司令官に乞われて彼と密会するようになる。

「つまり、自然に逆らうことはできないということです」と彼は言う。「自然の摂理として、男は多様な女を求めるのです。これは理にかなっています。生殖の戦力の一つなのですよ。神の計画なのです」。わたしが何も言わないので、彼はつづける。「女もそのことを本能的に知っているんですよ。昔の時代に、彼女たちがあれほどたくさんの服を買ったのもそのせいです。自分が異なった数人の女であるという印象を男に抱かせるためです。毎日、新しい女に変わるというわけです」(p.256)

ハードカバーで読んだ。引用もそこから。

同じディストピア小説でも、先行する『一九八四年』【Amazon】が共産主義をモデルにしていたのに対し、本作はキリスト教原理主義をモデルにしている。80年代はもう共産主義がオワコンだったし、欧米社会は何だかんだ言ってキリスト教がはびこっているし、当時はイスラム教国家の合わせ鏡としてアクチュアルだったのだろう。とりわけ、舞台になっているアメリカには狂信者が多く住んでいる。共産主義からキリスト教原理主義へ。作家というのはこのように手を変え品を変え工夫を凝らすわけで、本作は着眼点が面白い。

聖書を原理主義的に解釈すると女性差別的になるみたいだ。神によって最初にアダムが作られ、その次にイヴが作られた。アダムは騙されなかったが、イヴは騙されて罪を犯した。だから男性よりも女性のほうが劣位にある。聖書という遠い古代の物語によって、女性差別が正当化されているわけだ。こういうのって机上の空論に思われるかもしれないけど、同じアブラハムの宗教であるところのイスラム教が、現実に差別的な国家を作っている。たとえば、サウジアラビアやイランでは今でも女性が抑圧されている。だからキリスト教も他人事ではない。原理主義的な勢力が政権を握ったら、イスラム教国家と大差ない差別国家ができてしまう。キリスト教イスラム教は、看板が違うだけで内実は同じなのだ。古代の倫理観が現代にまで影響を及ぼす。実は宗教ってメリットよりもデメリットのほうが大きいと思う。

女性差別は人類史を股にかけた根深い問題で、一部地域では最近になってようやく解消されてきた。この視点は忘れがちというか、今まで考えたことなかったかもしれない。何だかんだ言って僕は男性なので、性差別を受けることはほとんどなかったから。それに昔と今とでは男女の役割分担が違う。というのも、『旧約聖書』【Amazon】の神は、禁断の果実を食べたアダムに対しては労働の苦しみを、イヴに対しては産みの苦しみを与えたけれど、今では女性も労働しなければならない。苦しみという意味では一層不利になっている。

というわけで、宗教と女性差別の関係について思いを巡らせることになった。

なお、2019年に続編が出ている。

pulp-literature.hatenablog.com