海外文学読書録

書評と感想

川島雄三『風船』(1956/日)

★★★★

有名な画家だった村上春樹森雅之)は実業家に転じて大成功を収めていた。息子の圭吉(三橋達也)は父の会社で部長を務め、未亡人の久美子(新珠三千代)を愛人として囲っている。圭吉の妹・珠子(芦川いづみ)は小児麻痺のせいでオツムが弱いと思われていたが、久美子のことを慕っていた。ある日、春樹は知人の正隆(二本柳寛)と再会する。正隆は愛人のミキ子(北原三枝)を圭吉の元に送り込むのだった。

原作は大佛次郎の同名小説。

登場人物の感情が複雑に入り乱れていて面白かった。みんなそれぞれ考え方が違っていて、対立したり融和したりしている。人間関係とは個人と個人が集まってできるものだが、聖人君子の集まりではないので上手く行かない。各人の思惑はバラバラで常に軋みを抱えている。そのような人間ドラマをここまで的確に描いた映画はそうそうない。人物間のズレっぷりを上手く表現していた。

愛人という立場の弱さが泣けてくる。未亡人の久美子は毎月まとまった金を貰って圭吉に囲われているが、圭吉に新しい女ができたため捨てられてしまう。病んだ久美子は自殺を図るのだった。久美子は金と引き換えに若さを売っている。だから時間が経てば経つほど女としての価値が目減りしていく。久美子は女にとって貴重な若さを搾取されているのだ。若ければ再婚して幸せな家庭を築くことも可能だったろう。しかし、彼女は愛人という不安定な立場に身を置くことになった。金で繋がっている関係は虚しい。男の気が変わったら関係も打ち切りになるのだから。残ったのは若さを失った女の姿のみである。年増と結婚する男などいるはずもなく、この先は一人で生きていくしかない。自殺を図るほど思い詰めるのも無理はないだろう。愛人とは結婚を前提とした付き合いではないわけで、将来を考えたら不毛すぎる。

圭吉のトラブルを機に村上家はバラバラになった。諸悪の根源は正隆である。彼が圭吉の元にミキ子を送り込んだからこうなった。正隆はなぜ村上家にちょっかいを出したのか。傍から見ると理由のない悪意のように思える。ただ、どうやら彼はブルジョワ嫌いらしいから、自分の旧知が実業家として成功したのを妬んでいたのかもしれない。動機がはっきりと語られないのであくまで推測である。それにしても、ここまで人間関係を引っ掻き回して他人の人生を台無しにするのはたちが悪い。そんなに村上家を憎んでいたのだろうか。しかし、見た感じちょっかいを出したのは遊び半分である。たまたま手元に道具があったから使ってみた。そういう気軽さで他人の人生を弄んでいる。いずれにせよ、正隆がいなければドラマは動かなかった。ああいうのと旧知であったことが運の尽きである。

叩き上げの春樹に対し、息子の圭吉はボンボンである。春樹は金が圭吉を腐らせたと思っていた。確かにそれも一理あるが、圭吉の退廃は金だけが原因ではないだろう。彼の退廃は若者世代の退廃であり、いつの時代も若者は非倫理的で無責任なのだ。当時は大人になれば分別がつくと思われていた。春樹の言動にはそう信じている節がある。圭吉も自立すれば大人になって落ち着くだろう、と。翻って現代はどうか。我々の社会では大人になることが困難になった。ネットの普及によって老若男女がフラットになり、終わらないアドレセンスを生きることになった。事実、SNSで揉め事を起こしているのはアラフォーが中心である。彼らは子供のまま歳だけ食っておじさん・おばさんになった。そういうグロテスクな状況を目の当たりにしていると、春樹の言動が度し難い楽観に思える。我々は結婚しても子育てしても大人になれないのだ。永遠に若者気取りの中年たち。まったく嫌な時代に生まれたものである。

小児麻痺で抜けていると思われた珠子が実は一番まともで、彼女は聖女みたいな役割を担っている。珠子は春樹にとっての唯一の希望であり、映画の中で一際輝いていた。