海外文学読書録

書評と感想

リューベン・オストルンド『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(2017/スウェーデン=独=仏=デンマーク)

★★

クリスティアン(クレス・バング)は現代アート美術館の著名なキュレーター。彼は次の展覧会で「ザ・スクエア」という参加型のアートを展示することになった。それは地面に描いた正方形で思いやりの聖域を表現したものである。一方、道を歩いていたクリスティアンスマホと財布をすられてしまう。部下の力を借り、GPS機能で犯人のマンションを突き止めて脅迫のビラを配ることに。また、彼は女性記者のアン(エリザベス・モス)と肉体関係になる。

予想される展開をことごとく外してくる捻くれた映画。やってることは面白いし、終わり方も苦味があっていいが、2時間半は長すぎる。大作の柄じゃないだろうと思った。

我々は弱者との連帯を社会の理想として内面化している。その一方で、弱者と連帯する気はさらさらない。道端に物乞いがいても無視するし、見るからに困っている人がいても助けない。理想と現実が乖離している。

なぜこうなるかと言ったら、そもそも弱者は不快なのだ。実際に弱者と関わると分かるが、彼らの大半はクズである。人の財布に手を突っ込むことしか考えてないうえ、ちょっとした利得があると平気で人を裏切る。衣食足りて礼節を知ると言うが、衣食の足りない弱者は礼節を知らないのだ。だから我々と同じ人間だと思って接すると思わぬしっぺ返しを食うことになる。戦争は女の顔をしていないように、弱者は善人の顔をしていない。個人が関わるとどうしても足を引っ張られることになる。だからなるべく関わらないようにするしかない。仮に支援するとしたらそれは公的機関が行うべきだろう。弱者を助けるのは個人の手に余る。

と、我々はそういうことを経験知で分かっているから弱者と連帯しない。若干の後ろめたさを抱えつつ弱者を無視することになる。そして、罪悪感を払拭するために公の場では耳障りのいい連帯を唱えるのだ。言ってることとやってることの不一致。ヨーロッパは理念の社会だから尚更その矛盾が目立つ。本作を見るとヨーロッパ人は大変だと思う。建前を掲げて本音を隠さなければならないのだから。そういうところは日本と似ている。

決まっているショットがいくつかあった。まずはデパートで荷物を持ったクリスティアンが立ち尽くすショット。立体的な背景の中に人物が上手くはまっている。みんな互いに無関心な態度でエスカレーターに乗っている様子は現代社会の縮図だろう。また、クリスティアンがゴミ捨て場でゴミを漁るショット。真上からの構図が決まっていた。雨の中ゴミを漁っているのが絵になっている。そしてもうひとつ、クリスティアンと娘2人が螺旋階段を登るショット。カメラを回転させているところに工夫が見られた。本作はこれに限らず高低差を表したショットが面白い。特にクリスティアンの自宅マンションでは自転車の有無で少年(Elijandro Edouard)が立ち去ったのを示しているのが良かった。

執拗に謝罪を求めてくる少年と暴走するモンキーマン(テリー・ノタリー)が強烈だった。また、女性記者のアンも事後に使用済みコンドームを欲しがっていて異常である。他者は多かれ少なかれ理解不能な面を持っている。だから連帯が難しい。多様性が叫ばれる昨今だが、実は同質的な社会が一番住みやすいのだ。とはいえ、現実にそういった社会は作れない。松戸市からベトナム人は追い出せないし、川口市からクルド人は追い出せない。我々は異質な他者と共存していくしかないのである。