海外文学読書録

書評と感想

アッバス・キアロスタミ『オリーブの林をぬけて』(1994/イラン)

★★★★

コケール村。アッバス・キアロスタミ監督(モハマッド=アリ・ケシャヴァーズ)が、『そして人生はつづく』に出てきたあるエピソードを映画にしようとする。オーディションで妻役はタヘレ(タヘレ・ラダニアン)に決定した。夫役は当初青年を予定していたが、彼があがり症だったため、代わりに雑用係のホセイン(ホセイン・レザイ)を抜擢する。ホセインはかつてタヘレにプロポーズしており、現在も未練があった。

これは面白かった。映画を撮影する様子を映したメタフィクションだけど、その核には男女のロマンスがあって、入り組んだ構造でシンプルな情動を喚起させている。しかも、それを素人俳優でやってのけているのだからすごい。そりゃまあ、下手にプロの俳優を使ったら嘘臭くなってしまうので、素人を起用する必然性はちゃんとある。でも、門外漢からしたらみんな佇まいが堂に入っていてとても素人には見えない。人は誰でも俳優になれるということだろうか。

字が読めないうえに家もないホセインは、今風に言えば弱者男性というやつだろう。そんな彼がタヘレに求婚するのはハードルが高い。というのも、タヘレは美人のうえに字が読めるから。タヘレにとってホセインとの結婚は下方婚になるわけである。さらに、タヘレには両親がおらず、代わりに祖母がタヘレの面倒を見ていた。その祖母ときたら、ホセインの求婚については論外といった様子。理由は彼が弱者男性だからで、できることなら金持ちの男性(強者男性)と結婚させたかった。見ているほうもホセインとタヘレでは釣り合いが取れないと思うのだけど、ホセインはそんな事実にめげたりしない。情熱をもってひたすらタヘレを口説いている。

ホセインの結婚観が独特だ。彼は金持ち同士、字が読めない同士、家を持っている同士の結婚に反対している。金持ちは貧乏人と、字が読めない者は読める者と、そして家を持っている者は持っていない者と結婚すべきと言うのだ。つまり、足りないものを補う関係が理想なのである。これはこれで一理あって、富の偏在を緩和するという一定の社会的合理性がある。結婚によって富める者はますます富み、みたいなのは僕としてもうんざりなので。問題なのは、ホセインがタヘレの富に見合った何かを持ってないことだろう。彼はイケメンでもないし、背も高くないし、将来性があるわけでもない。狂おしいまでの愛情がアピールポイントで、無視されても諦めないところが唯一の取り柄である。

本作のハイライトは、ホセインがタヘレを追いかけるところをロングショットで捉えただろう。まさに「オリーブの林をぬけて」といった感じのラストだ。一面の緑の中に白い服を着た2人がポツンと点在している。しかも、カメラは固定でけっこうな長回しだ。この無言の動きがまた劇的で、キアロスタミ監督はロングショットの名手だなとしみじみ思う。

撮影の一コマ。ホセインの親戚は地震のとき本当は25人死んだ。しかし、監督は「65人死んだと言え」と要求する。撮影中に事実と脚色のせめぎ合いが起きているのだけど、実はこのやりとり自体が脚色なわけで、メタフィクションを象徴するシーンになっている。結局のところ、カメラに映ったら虚実は曖昧になってしまうのだ。本作は虚構と現実の関係を考えさせる意味でも興味深い。