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パリ。芸人のバチスタ(ジャン=ルイ・バロー)が犯罪大通りでパントマイムをしていると、見物人のガランス(アルレッティ)が隣人の時計を盗んだと疑いをかけられてしまう。盗んだのはガランスの友人で悪漢のピエール(マルセル・エラン)だった。バチスタがパントマイムをしてガランスの濡れ衣を晴らす。その後、役者のフレデリック(ピエール・ブラッスール)がバチスタと同じ劇団に就職。さらに、ガランスと再会したバチスタは彼女に恋をするが……。
ひとことで言えばメロドラマだけど、男女のままならない恋愛を狂騒的・祝祭的空間のなかに描いていて見応えがあった。振り返ってみると、誰の恋愛も成就してないのだから苦笑してしまう。バチスタとガランスは両思いなのに離れてしまうし、ナタリーはバチスタと結婚して一児を設けたにもかかわらず、ガランスの再登場で立場が揺らいでしまう。ガランスと結婚した伯爵は彼女に愛されてないし、ピエールとフレデリックには恋愛の「れ」の字も浮かばないでいる。この映画は何と言ってもラストシーンが素晴らしくて、謝肉祭の群衆をかき分けてガランスを追いかけるバチスタの悲恋がせつなかった。この構図だけでもご飯が3杯いけそうなくらいである。劇場という狂騒的な空間。謝肉祭という祝祭的な空間。本作は群衆を効果的に使っている。
群衆と言えば、本作は犯罪大通りを行き交う群衆のショットから始まっている。この時点で僕は、自分が絵面としての群衆に惹かれていることに気づいた。これはいったいなぜだろう? 現実生活では人混みが嫌いで、そういう場所はなるべく避けているのに。満員電車で通勤するのが嫌だから、転職して引っ越しまでしたのに。しかし、画面を通して人混みを眺めるのは好きなのだ。たとえるなら、渋谷のビルからスクランブル交差点を見下ろすような感覚。その無秩序な秩序に見入ってしまう。
ヒロインのガランスは伯爵の目に止まり、あることがきっかけで彼と結婚することになる。ガランスは名字すらない下層民であり、結果としては玉の輿に乗ったのだった。女性の上昇婚は今でも議論の的になっているけれど、本作を見る限りでは、女性とは元来選ばれる性、高位の男性から見初められる性なのだと思う。それはシンデレラの物語でも明らかである。今では男女平等になってその図式も解消されるのかと思いきや、依然として女性は上昇婚を望んでいる。高学歴・高収入・高身長といった、身の丈に合わない男性と結婚したがっている。そして、そういう散文的な状況だからこそ、ベタなメロドラマが支持されているのだろう。方や現実的な結婚をし、方や理想的な恋愛を夢見る。フィクションとは欲望の代替装置なのかもしれない。
悪漢のピエールが19世紀的なならず者でインパクトがあった。何となくバルザックの小説に出てきそうな感じがする。あと、天井桟敷の人々を「生活はささやかだが大きな夢がある」とやさしく定義しているところに感銘を受けた。天井桟敷の人々とは、舞台に向かってガヤを飛ばす庶民のことである。僕もその一人として頑張って生きていこうと思った。