海外文学読書録

書評と感想

ミケランジェロ・アントニオーニ『太陽はひとりぼっち』(1962/伊=仏)

★★★★

ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)が婚約者のリカルド(フランシスコ・ラバル)と別れる。彼女には何とも言い難い倦怠感があった。その後、友人たちと気晴らしをするも気が晴れない。ヴィットリアは証券取引所で母(リラ・ブリニョーネ)と会う。母は株に投資していたが、突然暴落してしまうのだった。それを機にヴィットリアは仲買人のピエロ(アラン・ドロン)と親密になる。

ヴィットリアの気怠げな表情が印象に残る。とはいえ、彼女は劇を通じて楽しげな表情もしていた。たとえば、女友達とはしゃいだり、イケメンとキャッキャウフフしたりしている。イケメンとはデート・キス・性行為と一通りのことは済ませた。ところが、見終わって頭に残るのは気怠げな表情だけなのだ。ヴィットリアは何が楽しくて生きているのか分からない。本作は彼女の倦怠感を味わう映画になっている。

なぜヴィットリアが気怠げなのかは分からない。「テーブルもクロスも本も男も同じ、飽きるのよ」と言っているから気分的な問題なのだろう。こういうのは理屈ではない。おそらく彼女が感じているのは暇つぶしとしての人生ではないか。「人生とは死ぬまでの暇つぶし」とはよく言われるフレーズだが(元ネタはパスカルらしい)、ヴィットリアの人生もそういった消極的なモードに入っている。いくら物事を積み重ねても死んだらすべてが無に帰る。そのような諦念は誰もが一度は抱いたはずだ。平日は仕事をして休日は遊んで、また平日は仕事をする。日常は虚しいのである。友達と旅行したり恋人とイチャついたりしても、それは一時の気晴らしにしかならない。人生の有限性がもたらす虚無からは逃れられないのだ。そう考えると何事にも本気で打ち込めない。人を心の底から好きになり、永続的な関係を結ぶこともできない。残るのはただ屍として生きる倦怠感のみである。

リカルドと別れ話をする冒頭がすごい。2人は屋内にいて、その場には扇風機が回っている。セリフも物音もほとんどなく、あるのは虚ろな眼差しだけだった。扇風機の風がヴィットリアの髪を揺らしているだが、その些細な動きが気になるほどそこは虚ろなのである。ヴィットリアの態度は取り付く島もないという感じで、終始憂鬱な表情でいる。彼女の態度に困惑するリカルド。この緊張感がたまらなかった。

ピエロの職場は証券取引所なのだが、そこがとにかくうるさい。おじさんたちが商いのために必死に怒鳴り散らしているのだ。そういえば、昔はこういった喧騒が当たり前だった。テクノロジーの発展によって今は人が集まらなくてもよくなった。ともあれ、ピエロの職場はとにかくうるさい。他のシーンは靴音が目立つくらい静かなのに、ここだけやたらと騒がしいのである。こんなにうるさいのは他のシーンと対比させる目的があるのだろう。たとえば、ヴィットリアとリカルドが別れ話をする冒頭がそうだし、ヴィットリアとピエロがデートするシーンもそうだ。プライベートは軒並み静かなのである。証券取引所は非日常であると同時に、資本主義社会の心臓部でもあった。欲望に近づくほどうるさくなり、欲望から離れるほど静かになる。そういった構造が本作にはある。

本作は終わり方が前衛的で、ヴィットリアもピエロもフレームに入らないショットを連続させて締めくくるところがすごかった。昔の映画はこういうことをするから面白い。