海外文学読書録

書評と感想

ヴィム・ヴェンダース『まわり道』(1975/独)

まわり道(字幕版)

まわり道(字幕版)

  • リュディガー・フォーグラー
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★★★★

作家志望のウィルヘルム(リュディガー・フォーグラー)が母親に背中を押されて旅に出る。道中、歌手のラエルテス(ハンス・クリスチャン・ブレヒ)と孫娘で芸人のミニョン(ナスターシャ・キンスキー)と出会った。さらに、女優のテレーゼ(ハンナ・シグラ)、詩人のランダウ(ペーター・ケルン)も加え、一行はランダウの叔父が持つ邸宅に向かう。ところが……。

ペーター・ハントケ脚本。

自分探しの旅を描いている。特徴的なのは旅先でRPGのように人と出会い、最大6人のパーティーになるところだ。人間は他者と関わることで初めて自分のことが分かる。だからこういう構成になるのだろう。一行は孤独について語ったり、自分が見た夢の話をしたりする。細部の深淵そうな会話と滲み出る文学趣味が印象的だ。想像するに、画面構成とロードムービーの枠組みはヴィム・ヴェンダースのもので、登場人物の会話と哲学はペーター・ハントケのものではないか。劇中でウィルヘルムは作家として大いに惑うが、その身振りはペーター・ハントケの分身のように見える。

6人で自分が見た夢を語り合うシーンがある。これがすこぶる現代的だ。というのも、フロイト以降の文学は夢に過剰な意味を負わせるようになった。そこに何か重大な意味があると思わせるようになった。作者が意味ありげに夢を出してくるから、読者も暗号を解くように夢判断をする。夢の中に棒状のものが出てきたらそれは男根だし、部屋が出てきたらそれは子宮である。すべてはちんことまんこに還元され、性的に解釈されるのだ。近代の宿痾になってしまった夢。文学趣味の本作がそこに目をつけたのも当然である。

ウィルヘルムは政治と無縁でも小説が書けるか悩んでいる。政治と文学が一体になればいいと思っている。この悩みがペーター・ハントケの悩みにしか思えない。人間はある程度の年齢になったら政治にコミットしなければならないが、それを文学の基盤に据えるべきかは迷うところだ。政治は得てして文学を安っぽくする。賞味期限を短くする。一方で、上手くはまれば時代の寵児として持て囃される。世界中に翻訳されて大金持ちにだってなれる。文学において政治は毒にも薬にもなる劇薬だ。結局、ウィルヘルムは政治小説を書くことに決めたが、これも東西に分断されたドイツならではの、あるいは過去に大罪を犯したドイツならではの選択だろう。ドイツの孤独は理想主義と国家哲学によるものだが、それが良い方向に振れればEUになり、悪い方向に振れればナチズムになる。僕はそんなことを思った。

登場人物の中で異彩を放っているのがミニョンだ。彼女は口が利けない。道端で大道芸をすることで金を稼いでいる。彼女は無言のうえに無表情で何を考えているのか分からない。突然お手玉をしたり、体操をしたりしている。まったく捉えどころのない女だが、その本領を発揮したのが邸宅に泊まったときだろう。ウィルヘルムがテレーゼと一夜を過ごそうとしたら、代わりにベッドにいたのがミニョンだった。彼女は無表情で幼い裸体を晒している。これがどうにもシュールで笑ってしまった。

ウィルヘルムは作家志望なのに人間嫌いであることに引け目を感じていた。旅に出ることでそれが直るかと思いきや直らず、最終的には一人になっている。この結末が皮肉で面白かった。つまり、人間嫌いであることを確認するための旅だったのである。