海外文学読書録

書評と感想

グザヴィエ・ドラン『たかが世界の終わり』(2016/カナダ=仏)

★★★

ルイ(ギャスパー・ウリエル)は34歳でゲイ。劇作家として成功している。そんな彼が12年ぶりに家族のところに帰ってきた。目的は死期が間もないことを伝えるため。母マルティーヌ(ナタリー・バイ)はケバい化粧をして浮ついた態度を取り、妹シュザンヌ(レア・セドゥ)は兄と過ごした記憶がなく、兄嫁カトリーヌ(マリオン・コティヤール)とは初対面でぎこちない。一方、兄のアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)はルイに敵対的で……。

人物の間合いで話を進めていく映画である。人間が複数集まったら間合いができる。その間合いがドラマを形作る。ルイは実家を出てから今まで一度も帰ってきてない。兄の結婚式にも出席していなかった。だから家族関係は気まずい。家族にとっては突然現れた異物だ。兄を始めとしてそれぞれ思うところがある。ぎこちない家庭劇の中には爆弾が燻っており、それが終盤になって爆発するところが面白い。

兄と妹に共通している不満は、ルイが才能に比して責任を果たしていないことだ。家族への責任、自分たちへの責任。ルイは12年もの間、家族を放ったらかしにして好き勝手していた。兄は家長の立場から自由になりたい。妹はここから違う場所に行きたい。それなのにルイは家族のために才能を使ってくれなかった。2人の心中には残された者の不満が渦巻いている。ルイは今更のこのこと何をしに帰ってきたのか。家を出てから12年も帰ってこなかったのに。特に兄のほうは苛立ちを募らせており、ルイに対して何かと当たりが強くなっている。

ルイは家族とは明らかに人種が違う。住む世界が違う。離れて暮らしたことで共有していた文化にズレが生じてしまった。ルイが家族に馴染めないのはその部分が大きい。唯一、兄嫁だけがルイと分かり合えそうである。なぜなら、ルイと同じ部外者だから。彼女は他所から嫁いできてるわけで、同じ釜の飯を食ってきたわけではない。もう少し話せば心が通じ合いそうだ。ところが、いいところで兄が邪魔をしてくる。まるでルイと妻が接近するのを警戒するかのように。結果、ルイは誰とも分かり合えない。

燻っていた兄の不満は段々と頂点に達してくる。ルイと2人でドライブした際は攻撃的な態度があからさまになった。ただの雑談にもケチをつけてルサンチマンをぶつけている。兄はルイの無関心が許せない。自分を懐柔できるだろうと高を括っているところが許せない。その思いが最後の食卓で爆発するところが本作のクライマックスである。

兄がルイに言いたかったことは「責任から逃げるなアア」だろう*1。もっと俺たちに関心を抱け、もっと俺たちに才能ある者の責任を果たせ。白髪交じりの兄は見た感じアラフィフである。そんなおじさんが弟にここまで劣等感を抱いているのだからどん引きだ。率直に言って、みっともない。爆発した兄は家族に当たり散らし、ルイを家から追い出そうとする。その狂態はなかなかの見もので、人間はいくつになっても大人になれないのではないか、と絶望してしまう。

回想シーンはMVみたいな演出でポップミュージックが流れる。その曲の一つに「恋のマイアヒ」が使われていて可笑しかった。日本では2005年に流行った曲である。当時、この曲がのまネコ問題を引き起こした。古のネット民としては懐かしい気分になる。

*1:『鬼滅の刃』で竈門炭治郎が半天狗に言ったセリフ。