海外文学読書録

書評と感想

アキ・カウリスマキ『街のあかり』(2006/フィンランド=仏=独)

街のあかり (字幕版)

街のあかり (字幕版)

  • ヤンネ・フーティアイネン
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★★★

ヘルシンキ。デパートの警備員コイスティネン(ヤンネ・フーティアイネン)は仕事の覚えが悪いうえ、同僚の間で浮いていた。彼はソーセージ売りのアイラ(マリア・ヘイスカネン)にいつか起業すると嘯いている。ある日、コイスティネンの前にミルヤ(マリア・ヤルヴェンヘルミ)という金髪女が現れた。彼女は反社のリンドストロン(イルッカ・コイヴラ)から送り込まれた工作員で、コイスティネンは宝石店強盗に利用される。

幸せの青い鳥みたいな話だった。色々と酷い目に遭ったが希望を失わない。常に前を向いている。ところが、それは実態を伴わない空想的な希望で、本当の希望は身近に存在していた。ラストでようやくそのことに気づく。

コイスティネンはイケメンだけど生きるのが下手で、資本主義社会でやっていける能力がない。社会人にとってもっとも大切なのは協調性だが、彼は同僚の間で浮いていてどうしようもないようである。おまけに実務的な能力もなかった。コイスティネンは起業しようと銀行に融資を申し込むも、的外れな書類を提出したうえ、自分を保証人にするというバカげた提案をしている。彼は確かに夢を持っている。しかし、あの能力では非現実的だ。コイスティネンは典型的な「無能の人」だが、そんな彼でも食うために働かないといけないから悲しい。結局、我々の社会は能力主義で、能力がない人は貧しい生活を強いられるのだ。ところが、コイスティネン自身はおそらくそのことに気づいてない。だからどん底でも希望を抱き続けることができる。これは認知の歪みがもたらした幻の光であるが、そのおかげで前を向いて生きていけるのだから幸福だ。コイスティネンがタフなのはメタ認知能力の低さが原因と言えよう。これはこれで羨ましい限りである。

映画におけるハードボイルドとは、登場人物が寡黙で無表情であることではないか。本作のメインキャラはだいたい無表情である。会話のときも必要以上に喋らない。そして、映画自体も余計なショットがまったくなかった。セリフを切り詰める。表情を切り詰める。ショットを切り詰める。色々なものを切り詰めて濃縮させた映画が本作であり、その様相はさしずめダイヤモンドである。アキ・カウリスマキはこの作風を長年貫いているのだから頭が下がる。

ヘルシンキフィンランドの首都だが、随分と辛気臭い。全体的に建物が低く、首都にしては風景が寂しいのだ。日本でたとると、宇都宮や前橋といった北関東の地方都市レベルである。ヘルシンキの人口は63万人(2016年)。宇都宮の人口が51万人(2015年)で、前橋の人口が33万人(2015年)である。こういった寂しい風景が理不尽なストーリーとマッチしていた。

ところで、コイスティネンは刑務所で笑顔を見せていた。彼が笑顔を見せたのは唯一この場面だけである。「無能の人」にとっては娑婆よりも刑務所のほうが居心地がいいのだろう。刑務所が落ちこぼれの福祉になっているのが興味深い。