海外文学読書録

書評と感想

ウィリアム・ワイラー『大いなる西部』(1958/米)

大いなる西部

大いなる西部

  • グレゴリー ペック
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★★★★★

テキサス州。東部からジェームズ・マッケイ(グレゴリー・ペック)という紳士がやってくる。当地はテリル少佐(チャールズ・ビックフォード)が牛耳っており、ジェームズは少佐の娘パット(キャロル・ベイカー)と結婚する予定だった。少佐は水場を巡って地主のルーファス・ヘネシー(バール・アイヴス)と争っている。水場は教師のジュリー・マラゴン(ジーン・シモンズ)が所有していた。ジェームズは少佐の牧童頭スティーヴ・リーチ(チャールトン・ヘストン)に嫌われており……。

西部劇の最高傑作はジョン・フォードではなくウィリアム・ワイラーが撮ったのではないか。そう思うくらい素晴らしかった。

本作では「男らしさ」の相対化を試みているが、保守反動の西部劇でこれをやったのはなかなかすごい。

ジェームズはとにかく「男らしさ」の誇示を拒否する。彼は人前で荒馬に乗るのを拒否しているし、牧童頭から挑発されても喧嘩を買わないし、常に丸腰で行動している。そのくせ陰では荒馬を乗りこなしているし、牧童頭と2人きりで殴り合いをしているし、銃を使った決闘にも応じていた。彼が「男らしさ」を誇示しないのは、それが自分の問題だからだ。「男らしさ」は人に見せびらかすものではない。自分が自分をどう評価するかが重要なのだ。そもそも「男らしさ」に拘ること自体馬鹿らしい。西部において名誉と名声は男の大切な財産であるが、そのせいで無駄な争いが起きていた。名誉のために殺し合いをする。名声のために殺し合いをする。真の「男らしさ」とはそれらから距離を置くことである。臆病者と謗られても構わない。無駄な争いを避けて平和を目指す。こういった「男らしさ」の相対化は現代人が見ても納得できるもので、これを保守反動の西部劇でやったことに意義がある。

東部出身のジェームズは文明人の表象であり、西部の現地民は野蛮人の表象である。野蛮人はとにかくメンツに拘る。少佐とルーファスは個人的な諍いを戦争にまで発展させているし、婚約者のパットはジェームズが男らしく戦わないことに腹を立てている。それ以外の人物も軒並みマチズモに脳を侵されていた。唯一の例外が水場を所有するジュリーで、少佐とルーファスの間で中立足らんとしている。ジュリーが文明人の側に立てたのは教師を生業としているからだろう。ともあれ、本作はいかにして文明人が野蛮人を教化するのかという話であり、それには旧世代に退場を願うしかなかった。すなわち、少佐とルーファスである。そもそもの元凶はこいつらだから、こいつらがいなくなれば話は早い。2人が相討ちになるラストは詩情がある。

報復が報復を呼ぶ争いは不毛だし、「男らしさ」に基づく勝ち負け思考ではいつまで経っても争いが終わらない。本当の「男らしさ」は平和を追い求める勇気だった。そのためなら臆病者と謗られても構わない。こういった綺麗事も意外と悪くないと思う。