海外文学読書録

書評と感想

ジョージ・ミラー『マッドマックス2』(1981/豪)

★★★

世界大戦によって文明が崩壊した。荒野では石油が枯渇しており、暴走族が走り回って石油を略奪している。孤高のマックス(メル・ギブソン)は犬を連れ、愛車インターセプターに乗ってそこらを徘徊していた。あるとき、マックスはジャイロ・キャプテン(ブルース・スペンス)と知り合い、彼から石油精製所の存在を聞かされる。2人で現地に向かうと、石油精製所を占拠する勢力と暴走族が対立していた。

『マッドマックス』の続編。

前作とは打って変わって荒廃した近未来を舞台にした西部劇になっている。予算があるとこういう映画になるのか、という驚きがあった。例によってカーチェイスは迫力があるし、石油精製所の爆発シーンも大掛かりである。タンクローリーが横転したシーンも見応えがあった。やはりCGで誤魔化せないという事実は大きい。こういう映画を見ると、現代のアクション映画は嘘っぽくて見れたものじゃないと思う。

本作は20世紀の寓話なのだろう。石油を制するものが世界を制する、という価値観の集大成みたいな物語になっている。思えば、20世紀は石油を巡って争いを繰り広げた時代だった。中東では欧米列強が積極的に武力介入したし、日本も太平洋戦争のときは石油を欲して南方諸島に進出している。その後も中東で何かある度にオイルショックを招き、世界経済を混乱させていたのだった。石油こそパワーの時代。それは21世紀の現代まで変わらず続いている。しかし、石油を含めた化石燃料はいずれ枯渇する。だからこそ現代の国家・企業はSDGsに邁進しているのだ。そして、石油の枯渇状況を描いたのが本作であり、石油精製所を巡る抗争は極めてモダンな状況設定である。

二つの勢力が対立するなか、放浪者が介入して事態を終息させる。これは西部劇のプロットだ。そして、この放浪者は同時に英雄でもある。マックスのような孤高の英雄は、その性格上ひとつの場所には留まれない。問題を解決したら華麗に去っていく。これこそが個人主義の英雄なのだ。英雄は英雄であるがために庶民と馴染まない。自給自足を基盤とした隠者のような生活を望む。振り返ってみれば、ハリウッドで量産された西部劇の主人公も個人主義の英雄として造形されていた。個人主義。それは西洋社会がもっとも重んじる価値観。本作には西洋の何たるかが詰まっている。

後世に影響を与えたという暴走族のコスチュームが良かった。モヒカンだったり仮面だったり、まるで呪術が跋扈していた時代に回帰したような格好をしている。これが文明の後退をひと目で分からせていて面白い。彼らはプロレスで言うところのヒールであり、何もしなくてもそのオーラが漂っているところは特筆すべきだろう。人間は見た目が大事なのである。

石油精製所を占拠していた勢力は、最終的には3200km離れた約束の地を目指す。彼らはユダヤ人がモデルなのだろうか? そう考えると、本作は中東を巡る寓話と解釈せざるを得ない。