海外文学読書録

書評と感想

『ドイツ1983年』(2015)

★★★

1983年。東ドイツの秘密諜報機関が、国家人民軍の兵士マーティン・ラオホ(ヨナス・ナイ)を西ドイツへ送り込む。マーティンは将軍の副官モーリッツ・シュタムになりすまして情報収集をする。NATOは西ドイツにミサイルを配備しようとしていた。やがてNATOは軍事演習を計画するが、東側はそれを核兵器による先制攻撃と勘違いする。

全8話。

ドイツのテレビドラマ。予想よりもポップな内容だった。スリルを煽ることに注力していてエンタメ度が高い。また、東西をまたぐ人間模様も見所であるものの、題材のわりに軽いところが引っ掛かる。とはいえ、ドイツのテレビドラマは初めて観たのでその軽さが意外だった。何となくアメドラ以上の重厚な内容を予想していたのである。

冷戦も信頼関係でできている。相手が攻撃してこないと確信できる限りは何も起きない。問題はどちらかが不信感を抱くことだ。相手が先制攻撃してくるかもしれない。核ミサイルを発射するかもしれない。そういった疑心暗鬼が事態をエスカレートさせて一触即発の危機を生むことになる。相手がこちらを攻撃してくる? だったらやられる前にやってやろう。本作の場合、きっかけはNATOによる西ドイツへのミサイル配備だった。ソ連の要人は会議の席で、「レーガンは愚か者だから危険なのだ」と述べている。当時のレーガンは後のブッシュやトランプみたいなポジションだったのだろう。いつの時代もタカ派は世界を挑発していて、彼らのお騒がせぶりには嘆息せざるを得ない。

かといって平和活動が無条件に正しいのかと言えばそうでもない。西ドイツの平和活動はスパイの隠れ蓑にされている。リーダーが東ドイツのスパイなのだ。さらに、西の軍人アレックス(ルドウィッグ・トレプテ)が平和活動の道に入って東ドイツに協力するようなことにもなっていて、イデオロギーが目まぐるしく交差している。平和活動は尊い。しかし、それも行き過ぎると人を誤った行動に導いてしまう。国益を追求すべきか、あるいは正義を目指すべきか。我々は正義を盲信する傾向にあるので、現代においても正義を疑うことは重要である。目の前の正義が必ずしも正しいとは限らないのだから。

ティッシュビアー(アレキサンダー・ベヤー)やシュベッペンシュテッテ(シルヴェスター・グロート)など、東側の上層部は確証バイアスに侵されている。NATOが先制攻撃してくると思い込んでいるのだ。マーティンがそれに反する報告をするも信じない。証拠を提出してもその証拠を改竄している。まるでこちら側が先制攻撃する口実を欲しがるかのように、マーティンの報告を都合よく捻じ曲げている。こういった確証バイアスの源泉には核攻撃への不安があるのだろう。相手を信頼できないから不安になる。そして、その不安がますます相手を信頼できなくする。こういった負のスパイラルは我々の日常にも潜んでいるわけで、人間が物事を判断することの限界が示されている。

平和活動の集会でアレックスがデモの無意味さを説いている。彼はテロこそが社会を変えると信じていた。現代日本でも、テロの有効性は安倍元首相銃撃事件によって証明されている(この事件によって旧統一教会の問題が明るみに出た)。これからはデモよりもテロの時代なのかもしれない。