海外文学読書録

書評と感想

サラ・ガヴロン『未来を花束にして』(2015/英)

★★★

1912年のロンドン。夫と幼い息子の3人で暮らしているモード・ワッツ(キャリー・マリガン)は、洗濯場で過酷な労働に従事していた。ある日、配達の仕事で外に出たモードは、女性参政権を求めて過激なテロ活動をしている集団に出くわす。モードは同僚のヴァイオレット(アンヌ=マリー・ダフ)にそこのリーダーであるイーディス(ヘレナ・ボナム・カーター)を紹介してもらい、運動に身を投じるのだった。

昔から日本のフェミニストは過激な言動で物議を醸していたけれど、その源流はここにあったのかと感慨深くなった。しかも、運動のやり方が日本の比じゃない。商店のガラスを投石でぶち破ったり、市内の郵便ポストを爆破したり。挙句の果てには、政治家の別荘を爆弾で木っ端微塵にしている。「言葉より行動を」をスローガンにして、過激派みたいな活動を行っているのだ。警察からはアイルランド独立運動と同等の扱いを受けているのだから立派である。イギリス政府を相手取った社会運動というと、ガンジーの非暴力主義が真っ先に思い浮かぶけれど、そんなのでは生ぬるい、権利を勝ち取るには非合法的な手段を取るしかない、実力を行使しないと男は耳を傾けてくれない――一連の活動にはそういう悲壮感がある。

現代日本でデモが忌避されるのは明らかに全共闘運動のせいだけど、あれって運動としてはすごく伝統的で、暴力的なところが時代にそぐわなかっただけなのかもしれない。さすがに戦後日本で武力闘争はないだろうと思うし。おまけに、過激派連中は内ゲバで死人を出して全国に醜態を晒してしまった。つくづくあの世代は罪深いと思う。社会を変えるには何が必要なのか。その手段は時代や地域によって違うはずなので、よくよく考えてみる必要がある。

法治国家だからといって法に従う義理はない。悪法は法ではない。男に有利な法などクソ喰らえだ。こういう考え方のもとで非合法活動をする女性たちが頼もしかった。確かに法律なんてそのとき権力を握った多数派による恣意的なルールに過ぎないのだ。絶対的な正義ではない。もしそうだったら、北朝鮮やイランの法律も正しいと認めるしかなくなってしまう。仮にこれから日本が右傾化した場合、僕も法を破る覚悟を持たなければならないのだろう。たとえば、治安維持法が制定されるとか、徴兵制が施行されるとか。そのときは愛国者として、信念を持って運動に身を投じるつもりだ。言葉より行動を。このスローガンを忘れずに胸にしまっておきたい。