海外文学読書録

書評と感想

ジェローム・K・ジェローム『ボートの三人男 もちろん犬も』(1889)

★★★

「僕」とジョージとハリス、それに犬のモンモランシーが、ボートでテムズ河を漕ぎのぼる。一行はキングストンからオックスフォードへ向かうのだった。

実に不思議なことだが、僕は薬の広告を読むとかならず、能書きに挙げてある病気にかかっていると信じこんでしまう。それも、いちばん悪性のやつに。どの薬の場合も、能書きの症状は僕がこれまで経験したあらゆる感覚とぴったり一致するのだ。(Kindleの位置No.39-41)

ユーモア小説。このジャンルはウッドハウスから入ったので個人的に本作はいまいちだったけれど(ウッドハウスが最高すぎる)、当時の風俗が生き生きと描かれているところは良かった。この時代から既に天気予報があったとか、写真の撮影も特別なことではなかったとか普通に驚いたし、また、テムズ河では蒸気ランチとハウスボートがお互いに相手を迷惑がっていて、現代における車とバイクみたいな関係で微笑ましかった。訳注によると、翌年出版された『四つの署名』【Amazon】ではテムズ河を舞台に蒸気ランチ同士が追いかけっこをしているという*1。こういうところで点と点が繋がるのが面白い。ヴィクトリア朝万歳! という気分になった。

語り口の面白さで読者を楽しませるところは落語みたいで、古き良き口承文学の名残りを感じた。読み味としては『吾輩は猫である』【Amazon】に似てるかもしれない。どちらかというと一気読みするタイプの小説ではなく、時間を置いて一章ずつ読んでいくタイプの小説だろう。また、意外にも旅の手引きとしても使えそうな内容で、ボートには何を積むのかとか、地主のふりをしてゆすってくるごろつきへの対応とか、役立つ情報が散見される。当時の人たちが本書を参考にしてテムズ河を旅したのも想像に難くない。ここら辺はプレ情報化社会という感じだった。

日本の読者としては、その土地ゆかりの歴史を掘り起こしているところが面白い。

思えばキングストンはいにしえの「キニンゲストゥン」であって、サクソン人の「王たち」はこの地で戴冠式を行なった。偉大なるユリウス・カエサルはここでテムズ河を渡り、ローマの軍団が高台に野営した。後の世のエリザベス女王と同じく、カエサルはありとあらゆる場所で一晩を過ごしたようだ。もっともカエサルはわれらが善良なるエリザベス女王より気取り屋だったから、酒場兼宿屋に泊まったりはしなかったが。

イングランドの処女王たるエリザベスは、パブときたら目のないほうだった。ロンドンから十マイル以内で少しでも面白そうなパブならば、女王は必ず顔を出したり、足を止めたり、泊まったりしたようである。(Kindleの位置No.912-919)

他にもジョン王やヘンリー八世などの逸話も盛り込まれていて、眠っていた歴史への探究心が頭をもたげてきた。

なお、本作には丸谷才一訳もあり、そちらは名訳として現代まで語り継がれている。

 

 

*1:大昔に読んだのでうろ覚えだけど、言われてみれば確かにそういう内容だった。