海外文学読書録

書評と感想

ジャネット・ウィンターソン『さくらんぼの性は』(1989)

★★★★

17世紀半ばのロンドン。象を吹き飛ばし、オレンジを12個頬張ることができる巨漢の犬女が、テムズ川の泥の中で赤ん坊を拾い、ジョーダンと名付けて育てる。成長したジョーダンは船乗りになって犬女の元を離れ、一方の犬女は清教徒革命で殺された王の復讐のためにピューリタンを殺戮する。

あらゆる旅は、その行間にもう一つの旅を隠している。歩かれなかった道、忘れ去られた曲がり角。そういう旅のことを僕は書いておこうと思う。僕が実際にした旅ではなく、したかもしれない旅。あるいは別の時、別の場所でした旅。僕はそれを日記や地図や航海日誌のような正確さで書き記す。僕が目にし、耳にした出来事を洩らさず記録した見聞録を綴る。そうすればあなたはそれを読む、僕のたどった道のりを指でなぞり、僕の行った場所に赤い旗を立てていくことができる。(p.8)

単行本で読んだ。引用もそこから。

いかにも現代文学らしい変わり種だった。全体のまとまったストーリーというよりは、個々のエピソードを楽しむような感じで、どちらかといったらエピソード集に近いかもしれない。少なくとも、よくある一本道の物語ではない。また、普通のリアリズム小説ですらなく、所々に超現実的な逸話なり描写なりがある。時系列も通常とは異なっていて、話は17世紀に留まらず、終盤では1990年に飛んだりもする。犬女とジョーダンは未来で別の人生を生き直しているのだ。本作の犬女は、象を吹き飛ばし、オレンジを12個頬張ることができるうえに、銃で胸を撃たれても平気でいる。つまり、現代文学によくいる規格外の人物だ。そして、本作も負けず劣らず規格外の小説で印象深い。実を言うと、途中までは傑作に違いないと思いながら読んでいた。

その夜、教会の鉛ぶきの天蓋の屋根裏で愛をささやきあっていた一組の男女が、自らの熱い言葉のために命を落とした。彼らの口からとめどなくあふれ出た言葉たちが、堅固な鉛にはばまれて行き場を失い、屋根裏部屋に充満したために空気がなくなってしまったのだ。恋人たちは呼吸ができなくなって死んでしまったが、翌日番人が小さな扉を開けると、言葉たちは彼をなぎ倒してわれ先にと外に飛び出し、幾千幾万の鳩に姿を変えて街のかなたへ飛び去っていったという。(p.22)

愛というのがテーマの一つになっている。「十二人の踊る王女たちの物語」という挿話では、様々な形の夫婦関係が描かれているけれど、どれも不幸なものばかりで、愛とはいったい何なのかと首を傾げてしまう。また、犬女も「愛とは何だろう?」という哲学的な疑問を抱いており、彼女の知る愛が語られている。そこでもやはり満足のいく愛――この場合は性愛――はなく、結果的にはジョーダンと犬たちへの愛が残るのみである。本作は幻想的でありながらも性愛に対しては懐疑的で、女性から見た男性はこうなのだという視点のあり方が身につまされる。特に男性の特徴を箇条書きにした虎の巻には苦笑してしまった。これは確かに的を射ている。

本作を読んで思ったのは、小説とは自由に書いていいということだ。絵画で例えるなら、白いキャンパスに白の絵の具を塗ってもいいし、レモンの汁を塗ってもいい。世の中には小説の講師がごまんと溢れているけれど、結局のところ彼らの教えはエンターテイメントを書くための方法であって、最先端の主流文学には当てはまらないのではないか。芥川賞の選評にピンと来ないのも、既存のルールに縛られた偏見で作品を評しているからであって、ストーリーがどうだとかテーマがどうだとか、些末なことに囚われ過ぎである*1。数人の選考委員によって賞が決められてしまうのも納得いかない。自分の手に負えない作品に出会ったらどうするのか疑問に思う。みんな言うほど大した読み手ではないだろう*2

というわけで、本作は普通の小説の枠に収まらない、規格外の小説を読みたい人にお勧めだ。終盤があまり盛り上がらないので、人によってはつまらないと感じるかもしれないけれど、それでも読んで損はしない。

*1:ストーリーもテーマも小説の表層に過ぎず、そんなところにケチをつけても意味がない。

*2:芥川賞とは関係ないが、だいたい口を極めて作品を罵る奴って、単に読解力が追いついてないというパターンが多い。自分の能力を過大評価し過ぎである。