海外文学読書録

書評と感想

イングマール・ベルイマン『魔術師』(1958/スウェーデン)

★★★

1846年。フォーグラー(マックス・フォン・シドー)率いる魔術師の一座が馬車でストックホルムに向かう。メンバーはフォーグラーの妻にして男装の助手マンダ(イングリッド・チューリン)、フォーグラーの祖母にして自称200歳の魔女グラニー(ナイマ・ウィフストランド)、途中で拾ったボロボロの俳優スペーゲル(ベント・エケロート)など。一行は検問所で引っ掛かり、領事の館に引き止められる。領事たちは一座の魔術が本物かどうか検証しようとするのだった。

19世紀は科学と啓蒙の時代であり、現代科学の前では〈神秘〉などあり得ない。神だってもはや古臭いのだ。それは21世紀に生きる我々にとっても常識的な考えである。その一方、本作はフィクションなので、〈奇跡〉や〈神秘〉がワンチャン存在するのではないかという期待感がある。科学と非科学。そして、真実と虚構。物語はその対立を軸に進んでいて、これから何が起きるのだろうとわくわくしながら観た。

西洋において、オカルトを題材にした映画というのは、だいたいキリスト教が裏テーマとして存在する。キリスト教復権を目論んだ映画もあれば、キリスト教の欺瞞を暴く映画もあるのだ。本作は後者のタイプで、魔術や奇跡が神の存在証明にまで繋がっている。もし神が存在するなら奇跡も存在する。しかし、神が存在しないなら奇跡も存在しない。フォーグラー一座は早い段階から自分たちのやっていることをペテンと認め、魔術は口上と小道具だけだと明かしている。言うまでもなく、これはキリスト教も同じで、あの宗教を支えているのも口上と小道具だけである。終盤では死んだと思われたフォーグラーが復活を果たすけれど、これはキリストの復活を暗示しているのだろう。フォーグラーの復活はトリックを用いたものだった。これが表しているのはキリスト教の欺瞞であり、人類が壮大なペテンにかけられていることを示唆している。

昼と夜とで表現している世界が違うところも面白い。人間には表の顔と裏の顔があり、人々は夜にその素顔を見せている。昼は明るく振る舞っていても、夜になると途端に弱みをさらけ出すのだ。これが偽物を本物のように見せかける魔術とリンクしている。つまり、我々も世間に対して見せたい姿を見せているということである。それが本物か偽物かはさておくとして。