海外文学読書録

書評と感想

イーユン・リー『理由のない場所』(2019)

★★★

小説家の「私」が、16歳で自殺した息子ニコライと会話する。ニコライは早熟で詩作の才能があった。2人の会話は、時に言葉をめぐるものになったり、時に口論めいたものになったりする。

私があなたぐらいの年で友達だったら、あなたの前では賢くて頭が切れたでしょうね。だから友達だったらよかったのにと本当に思う。私はあなたをとても愛しているけれど、母親として愛することしかできない。母親は最大の敵になることがあるけれど、それは親友になれないからなんだよ。(p.50)

言葉によって形成された観念の世界を舞台に、母と息子がひたすら対話を繰り広げている。訳者あとがきによると、著者のイーユン・リーも子供を自殺で亡くしているらしい。だから「私」はイーユン・リーがモデルで、ニコライはその子供がモデルのようだ。実際、そう読まれるような書きぶりになっている。僕は作品内にテクスト外の情報を持ち込むのが好きではないだけど、しかし、そうは言っても事情を知ってしまったら読み方が変わらざるを得ない。否が応でも、通常のフィクションとは違った受容の仕方になる。ともあれ、芸術家とはこうやって魂の深奥まで公にしないといけないから大変だ。物語作家とは違って、自分を切り売りしないといけない。

生者と死者の対話が本作の特徴だけど、実際に死者と話ができるわけはないので、冷静に考えると、これはすべて著者の考えたやりとりになる。つまり、ニコライの言ってることも著者が考えている。だから2人の対話は「私」の自問自答にしか見えないし、もっと言えば、自分が作り上げた想像上の息子――イマジナリー・サン――との茶番ではないかと思える。そういう懸念が頭の片隅に残っていたので、少しでもお互いを立てる部分が出てくると、「ナルシシズムの発露では?」と勘繰ってしまう。自分でも嫌な読み方だとは思うけれど、結局のところ私小説とは作者の自意識を楽しむタイプの読み物なので、こればかりはどうしようもない。著者にとっては悲しみを昇華する儀式ではあるにしても、読んでいるほうとしてはその切実さにあまり乗れなかった。

母親だったら子供の死はいつまでも忘れないだろう。でも、第三者にとってはそうではなく、彼の死を惜しむのはほんのひとときである。そして、その悲しみもしばらくしたら日常に埋没してしまう。たとえば、日本では今年の3月に志村けん新型コロナウイルスに感染して死去した。当初は彼を惜しむ声がたくさんあったものの、今では誰もがその存在を忘れている。残酷だけど、他人の死なんてそういうものだ。肉親でないものにとってはただのニュースでしかない。僕が本作に乗れなかったのは、ニコライが僕にとって何の関係もない他者だからであり、その死に切実さを感じる義理がなかったからである。人が共感できる範囲には限りがある。本作を読んでそのことを痛感した。

なくてはならないものとして、「私」が名詞を挙げたのに対し、ニコライは形容詞を挙げている。名詞とは散文的な大人の発想であり、形容詞とは詩的な子供の発想である。どちらも世界の成立には必要不可欠であると言えよう。しかし、ニコライの自殺によって「私」の世界から形容詞が消えてしまった。世界が名詞だけの味気ないものに変わってしまった。生死を超えた2人の対話は、荒廃した世界に彩りを取り戻す試みであり、これは書かれるべくして書かれた喪の儀式だと言える。