海外文学読書録

書評と感想

シーグリッド・ヌーネス『友だち』(2018)

★★★★

ニューヨーク。女性作家の「わたし」には一時期肉体関係になりかけたほど懇意にしていた先輩作家がいたが、その彼が自殺してしまう。「わたし」は彼が飼っていた巨大な老犬を引き取ることになった。「わたし」は精神科医のセラピーを受けつつ、様々な断想を巡らす。

回顧録を書いている友人が言った。一種のカタルシスとして書くという考えは大きらいだ。なぜなら、それでいい本が書けるとはとても思えないから。(p.68)

全米図書賞受賞作。

古典作家から現代作家まで、様々な人物のエピソードなり箴言なりが散りばめられていて、とても贅沢な読書だった。コレットナボコフクッツェーなどを引き合いに出すあたり、文学好きのツボを全力で押しにかかっている。個人的には、本作みたいに固有名詞が乱舞する小説には非常に弱い。作者の博識ぶりに感心すると同時に、世界が拓けていくような奇妙な高揚感を得た。こういう本はとにかく読書欲を掻き立てられるから困る。読んでいる最中は、文学こそが世界のすべてではないかと錯覚した。

創作された「死」によって喪失感を捏造するところは初期の村上春樹みたいで、こういう手法は現代でも使われているのだなと感心した。書くべきことが何もない時代の人間はいったい何を書くべきか。そういう深刻な問題意識が洋の東西にまたがっている。この問題はとうに解消されたと思っていたけれど、21世紀になってもまだ残っていたようで、作家にとって悩みの種は尽きないのだった。食うためには何か書かなければいけない。しかし、書くためには何らかの題材を必要とする。この辺、「ネタがないこと」をネタにするブロガーみたいで可笑しかった。

「書くこと」をどう捉えるのかは、作家にとって永遠のテーマなのだろう。ヴァージニア・ウルフは『灯台へ』【Amazon】を書くことで母親の亡霊から解放された。一方、ナタリア・ギンズブルグは書くことによって深い悲しみが癒やされることはないと主張しており、ヴァージニア・ウルフの体験と真っ向から対立している。そして、ボードレールにとって芸術(書くこと)は売春行為だった。このように「書くこと」については様々な意見で満ち溢れていて、統一的な見解は存在しない。人の数と同じくらいこだわりがあり、誰もが一家言持っている。だからこそ魅力的なのだろう。

作品に対するカスタマーレビューの話が面白かった。ネット時代になって作家は読者の反応をダイレクトに知るようになったけれど、その結果は惨憺たるものだった。大半は読者ではなく消費者で、自分が想定していた読者像とはかけ離れている。作品を丁寧に読み解くのではなく、好き勝手に誤読する連中ばかりで、そのことに作家は苛立ちを募らせていた。こんな奴らに読まれるくらいなら、いっそのこと誰にも読まれないほうがマシなくらいだ。こういうのって割とよく聞く話で、「作品は誰のものか」という古来からの議論に通じるものがある。ある人は「誤読の自由」を主張するだろうし、またある人は「作者の意図を汲み取るべき」と主張するだろう。これに関しても何が正しいのか僕には分からない。作者は作者で自作への思い入れが強いあまりに目が曇っているし、読者は読者で他に娯楽がたくさんあるから骨身を削って読むことはない。作者と読者を巡る言説にはかくも複雑な背景が隠れており、これを整理して正解を導き出すのは容易ではないのだ。作家と読者は元来分かり合えない関係である。両者を結びつけたインターネットは罪深い。

というわけで、様々なトピックが盛り込まれた刺激的な小説だった。