海外文学読書録

書評と感想

ミゲル・デリーベス『糸杉の影は長い』(1948)

★★★★

城壁都市アビラ。孤児のペドロが、叔父に連れられて教師ドン・マテオの家へ。住み込みの生徒になって教育を受けることになる。このときペドロは10歳だった。やがて同年輩のアルフレッドもこの家にやってくる。彼には家庭の事情があるようだった。アルフレッドに不幸な出来事が起きた後、ペドロは家を出て船乗りの世界に飛び込む。

その頃、糸杉が落とす黒くて長い、息の詰まるような影のもとにいても苦しみを感じることはなくなっていた。奇跡の変革はもう起こったのだ。ある日、遠くの町の公園で感心した現象がいま私の心の中で起きていた。あの時、椰子の樹皮に松の種がよくも発芽できるものだと驚いた。今では、双頭の怪物かあるいはヤヌス神が二つの顔を見せるみたいなもので、あんなものはごくあたりまえの植物現象としてどこにもあるのだと思えた。私の心に影を落としていた糸杉の幹にジェーンが別の種を蒔き、それが手厚い世話と愛情のもとに深く根を下ろして花を植え付けたのだ。(p.255)

これは著者のデビュー作だけど、既に老成しているというか、達観しているというか、とにかく人生観がしっかりしていて驚いた。幸福と不幸の本質を捉えているあたり、とても28歳が書いた小説とは思えない。さらに、登場人物の思索や物語の筋運び、緊密な文体など、すべてが新人離れしていて、まるでベテランが書いたような小説だった。昔の人間は20代で既に成熟していたのだろう。現代人は寿命が延びたぶん、大人になる年齢も先延ばしになったと思う。

幸福か不幸かは柔軟に放棄できるかどうかの問題であり、難しいのは手に入れることではなく放棄することである。ドン・マテオのこの人生観が全編を貫いていて、ペドロがどのようにしてそれを乗り越えるのかが本作の肝になっている。ペドロは第一部で大切な友人アルフレッドを亡くし、そのせいか長じてからは厭世的な人間になった。喪失を恐れるあまり手に入れることに消極的になったのだ。五体満足の人間は腕を失うと悲しみに暮れる。それに比べて、生まれながらにして腕がない人間は失う悲しみがない。アルフレッドの死は、幸福を手に入れようとする生活からペドロを遠ざけた。けれども、そんな彼の前に運命の女が現れ、ペドロの頑なな心を氷解させる。面白いのはそのままハッピーエンドを迎えるのではなく、そこからもう一捻りあるところで、物語は紆余曲折を経て止揚する。この手並みが鮮やかで、読後感はかなり充実していた。

墓地が重要な場所になっているところもポイントだろう。死者ゆえに生者があるという哲学が、この二部構成の物語において対照的に示される。すなわち、第一部におけるアルフレッドの死と、第二部におけるジェーンの死だ。ふたつの死は同じ喪失でも続く展開への意味合いが大きく異なっている。単純に言えば、停滞と進展だ。そして、最後にペドロが神に回帰するところは無宗教の僕にはピンとこなかったけれど、しかしこれはドン・マテオの教えに回帰することでもあるので、小説としては収まりがいい。幸福とは何か、生きるとは何か。その問題に真っ向から取り組んだ本作は、やはり新人離れした小説だと思う。

ところで、文学ってほとんどの場合、行き過ぎた物質文明を否定しているような気がする。モノに溢れた豊かな世界をハックしてハッピーに暮らそう、みたいな小説に出会ったことがない。本作を読んで今更ながらそのことに気づいた。