海外文学読書録

書評と感想

エドマンド・ホワイト『螺旋』(1985)

★★★★★

17歳の少年ガブリエルは、部族の少女アンジェリカに惚れて結婚するも、そのことが父親にバレて監禁される。叔父のマテオに救出されたガブリエルは、都に出て社交界に顔を出す。そこでキレ者の老婆マティルダの愛人になるのだった。その頃、マテオは女優のエドウィージュと肉体関係になるが、ガブリエルも彼女に惚れる。やがてアンジェリカが都に出てマテオの庇護を受けるのだった。

ところがマテオは、マティルダのとある夜会でひとりの戯曲家と知り合った。サスペンスという肉とじゃがいもの周りに、前年の「知的命題」の飾りをはさみこんで供することで観客をおだてる、よく工夫されたメロドラマでひと財産築いた男だった。最新作は、「女主人公が第一幕ではひとことも口をきかず、第二幕では裸になり、第三幕で羽根によって窒息させられる、そういう芝居を書いてくれ」との、興行師の挑戦に応えて書かれていた。この原点が戯曲家の頭の中でなぜか、狂気こそ一段上をいく叡智の一形態であるという、最近はやりのお題目と結びつき――その結果が『神女』。(p.178)

紙幅のほとんどが社交界の様子に費やされているのだけど、これが滅法面白くてびっくりした。言葉の意味を巧みにすり替えたり、本音を抑えて無難な発言をしたり、会話が非常にテクニカルである。どの発言も話者のねじくれた自意識が反映されているのだ。それもこれも地の文による皮肉な人間観察があるからこそで、テクストから透けて見える作者の嘲笑的な態度が素晴らしい。この叙述はナボコフに似てるかもしれない。ナボコフが読んだら気に入りそうだし、ナボコフフォロワーが読んでも同様だろう。こういう作風の小説は、日本の某作家も書いている(名前は挙げない)。社交にしろ乱交にしろ、人間の行いはすべて愚行であり、それをさめた叙述で厭味ったらしく綴っていく。思えば、プルースト社交界に巣食う人たちをスノッブと切り捨てて滑稽に描いていたけれど、それとはまたアプローチの仕方が異なっていて、もっと差異化されたような感じなのだ。その意味ではナボコフっぽいし、文学における中二病とも言える。この叙述がとても見事だ。

熟練した遊び人のマテオ、洗練された貴婦人のマティルダ。両者が揃いも揃って恋に溺れてしまうのが滑稽だった。どちらも根性が曲がっていて、さめた態度で物事を見るタイプなのに、若いツバメたちの虜になってしまう。こういうのを見ると、恋とは理屈ではないのだと思う。いくら知的で高い教養を持っていても、本能には逆らえない。どんなに聡明でも目が曇ってしまう。個人的にショックだったのは、愛人を失ったマティルダが動揺して大胆な行動に出るところで、恋とはこのような傑物でさえも制御不能にしてしまうのかと驚嘆した。彼女がラストで引き起こすカタストロフもまた印象深い。

物語のキーパーソンになるエドウィージュは、過去十年間に何百人もの男と寝た生粋の売女で、性病は大丈夫なのかと心配になった。彼女はマテオから「優美」と評価されているのだけど、それはあくまで造り物として優美なのであって、女性の「美」はそこにこそ市場価値があるのだという。これって今どきの芸能人やモデルみたいだと思った。この種の人たちも決して美人ではないのだけど、造り物としては優美で、だからこそテレビに出ている。マネキンとして価値がある。「美」についての本質が分かったような気がした。

それにしても、こういう小説を絶賛すると、自分が鼻持ちならない貴族趣味のように思えてちょっと鼻白んでしまう。しかし、面白いことは確かなので、特にナボコフ好きにはお勧めしておく。