海外文学読書録

書評と感想

フリオ・コルタサル『すべての火は火』(1966)

すべての火は火 (叢書アンデスの風)

すべての火は火 (叢書アンデスの風)

 

★★★★

短編集。「南部高速道路」、「病人たちの健康」、「合流」、「コーラ看護婦」、「正午の島」、「ジョン・ハウエルへの指示」、「すべての火は火」、「もう一つの空」の8編。

あとになって、つまり通りや列車の中、あるいは野原を横切っている時にゆっくり考えれば、すべてがばかばかしいものに思えたことだろう。しかし、劇場に入るというのは、不条理と手を結び、その不条理が効果的でしかも華やかな形で演じられるのを目にすることにほかならない。(p.149)

実験的・遊戯的な要素の強い短編集だった。著者は小説を言葉遊びとして捉え、虚実を裏返すようなことを確信犯的に書いているような気がする。

以下、各短編について。

「南部高速道路」。日曜日の高速道路。片側六車線、計十二車線の道路が、パリへ向かう車で埋め尽くされていた。渋滞は一向に解消される気配がない。運転手たちは車から降りて近くの人と交流する。渋滞がエスカレートしてあり得ない非日常に突入するところが面白かった。昼は暑いし、夜は寒い。水も食糧も不足している。しかし、渋滞は一向に解消されない。この状況が何日も続いている。遂には買い出しをするための遠征隊まで組まれた。文明の利器であるはずの高速道路で、ちょっとしたサバイバル状況が生まれている。

 「病人たちの健康」。ブエノスアイレス。闘病生活を送る母の容態を悪化させないため、家族は息子アレハンドロの死を隠していた。母はアレハンドロがブラジルで働いていると思い込んでいる。家族はアレハンドロの手紙を捏造して母と文通する。みんなで母を騙すところがスリリングで、アレハンドロが戻ってこれないのはブラジルの政情が悪化したからだとか、現地で身柄を拘束されたからだとか、これでもかと嘘をつきまくっている。また、途中で叔母が病死するのだけど、そのこともひた隠しにするのだった。本作はラストが捻っていて、虚実がひっくり返るオチには目を疑った。

「合流」。反乱軍に参加している「わたし」は、仲間のルイスの安否が気になっている。情報によると、彼は戦死したようだった。他にも仲間たちが屍を晒している。訳者解説を読んで驚いた。本作はチェ・ゲバラを主人公にしてるらしい。読んでいてまったく気づかなかった。「わたし」はルイスをモーツァルトになぞらえていて、弦楽四重奏曲「狩り」【Amazon】が作品を貫いている。

「コーラ看護婦」。15歳のパブロ少年が入院している。それを心配する母親。少年を担当する看護婦はコーラという女性だった。これはあらすじに意味がなくて、複数の語りが混線する様子を味わう短編。それぞれがシームレスに繋がっていて、誰が語っているのかを常に意識する必要がある。実験的手法が面白かった。 

「正午の島」。スチュアードのマリーニは、エーゲ海のキーロス島に行きたがっていた。彼は飛行機で上空を通り過ぎるたびにその島を気にしている。念願叶ってようやく島に旅行することになったが……。例によって虚実がひっくり返るような小説で、どこでどう現実が捻れたのか判断がつかない。ふと思ったけど、これって「信頼できない語り手」を三人称でやってるのではなかろうか。まるでメビウスの輪みたいだった。

ジョン・ハウエルへの指示」。劇場に入ったライスが、スタッフの指示でハウエル役を演じることになった。彼は上演中、相方のエバに「お願い、助けて、殺されるの」と囁かれる。それは台本にないセリフだった。まもなくエバは舞台上で殺される。観客を舞台にあげて即興で役者 をさせるのっていかにも前衛劇らしいけれど、それが不条理世界への入口になっているところが著者らしい。作中人物を翻弄するプラクティカルジョークみたいだった。小説を言葉遊びとして捉えて何でもありなことをやっている。

「すべての火は火」。古代ローマ円形闘技場と現代のパリ。2つの物語がもつれ合いながら、最後は両者とも炎に包まれる。「コーラ看護婦」の発展的進化形といった感じだろうか。ただ、こちらは時空が離れているところが大きく違う。2つの物語が炎に収斂されるラストがお見事。

「もう一つの空」。株の仲買人をしている「僕」が、パリのヴィヴィアンヌ回廊でジョジアーヌと出会う。そこでは絞殺魔ローランが世間を騒がしていた。ヨーロッパのアイデンティティ第二次世界大戦の前と後で全然違っていて、ローランの事件は前時代の追憶みたいな位置づけではなかろうか。たとえるなら、ロンドンで言うところの切り裂きジャック。ローランがへっぽこだったのが皮肉だ。