海外文学読書録

書評と感想

ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(1885)

★★★

パリ。アルジェリアからの帰還兵ジョルジュ・デュロワは、鉄道会社に安月給で雇われていた。そんななか、戦友のフォレスチエと偶然再会し、新聞記者の仕事を紹介してもらう。イケメンのデュロワは立場のある夫人たちと不倫し、順調に出世していくのだった。

「聴いてください、愛というものは永遠には続きません。ひとは愛しあい、別れるんです。しかしぼくらの関係のようにずるずる長引けば、それは恐ろしい足かせになるのです。ぼくはもうそんなのは御免です。ね、これが本音なんです。しかし、あなたが聞き分けよくなって、この先、ぼくを友人として迎え、つきあうことができるというのなら、かつてのように、あなたの家を訪れてもいい。どうです、できそうですか?」(p.422)

貧乏青年が美貌でのし上がっていくアンチヒーロー小説である。読んでいて『赤と黒』【Amazon】を連想したけれど、結末は大きく違っていた。この手の話は挫折して終わるのが相場だと思っていたので、いい意味で予想を裏切られたかもしれない。こういう小説もあるんだなあと勉強になった。

19世紀のフランスは階級社会だけれども、本作を読むと今よりも夢があったと思う。というのも、イケメンだったら金持ちの夫人を籠絡して成り上がることができたから。これって現代ではまず無理じゃないかな。僕は若い頃、容姿端麗・頭脳明晰の少年だったけれど、これで得したことと言ったら年上のお姉さま方から贔屓してもらったことくらいで、とてもじゃないが格差社会を駆け上るようなことはできなかった。せいぜい女性教師に好意を持って接してもらったり、弁当屋のおばちゃんに唐揚げをおまけしてもらったりしたくらいである。今だったらママ活で小遣い稼ぎができたろうけど、当時はそんなものなかったし……。そして、そうこうしているうちに歳をとってくたびれたおっさんになってしまった。今ではもう若い頃の面影なんてこれっぽっちもない。そこら辺によくいる量産型のおっさんである。現代日本は夢がなさすぎるんじゃなかろうか。僕は高校時代に『赤と黒』を読んでジュリアン・ソレルに憧れていたけれど、ああいう人生を送ることはついぞ叶わなかった。

フランス文学にはコキュ(寝取られ男)の伝統があって、このブログで取り上げた本だとフランソワ・ラブレー『第三の書』に出てきた。同書は16世紀半ばの小説なのでなかなか古い。で、このコキュというのが本作でも重要な位置を占めていて、デュロワは同僚のフォレスチエに対して「おまえの女房を寝取ってやる」と内心で毒づいているし、実際彼が死んでからは予告通りの結果になっている。すなわち、デュロワはフォレスチエが死んだ後、残された未亡人と結婚したというわけ。そして、これだけで終わらないのが本作の面白いところで、今度はデュロワが妻に裏切られてコキュになってしまう。でも、実はこれが出世の足掛かりになるのだ。デュロワはコキュになったおかげで正々堂々妻と離婚し、すぐさま上流階級の娘と結婚することになる。このようにコキュというマイナス要素をプラス要素に転換したのが本作の面白いところだろう。これはなかなか意外性があった。

本作は自然主義文学だけあって、19世紀パリの風俗が垣間見えるところがいい。たとえば、仲のいい男同士で腕を組んで歩くとか、記者たちが編集室でけん玉に興じているとか。こういう昔の生活を拾えるところが、古典を読む醍醐味のひとつだと思う。