★★★★
パリのムフタール通り。貧しい家に生まれたルイ・キュシャは、母と兄と姉と双子の5人と暮らしていた。母は市場で野菜を売っている。また、よく家に男を連れ込んでいた。幼いルイは体が小さいうえに無口で何を考えているのか分からないところがある。学校に上がってからはいじめを受け、「ちびの聖者」とあだ名をつけられた。
ルイは現実を――椅子を、街を、女を、路面電車を、模写しようとはしなかった。練習のため、ときどきそうすることがあったが、とてもうまく模写できた。しかし、それはあくまでも現実の忠実な再現である。彼が描き出したいと望んでいるのは、現実そのものなのだ。彼が見たような、というより、無意識的に、彼の心のなかで構成された現実なのである。(p.184)
20世紀初頭のパリを活写した風俗小説として面白いし、大家族に焦点を当てた家族小説としても面白いし、印象派の画家を題材にした芸術家小説としても面白い。一粒で三度おいしい小説だった。なるほど、本作がバルザックに比せられるのもよく分かる。
「花の都パリ」といってもルイの住んでいるあたりは前近代的で、各家庭には水道もなければガスも通ってない。一部の富裕層だけが水道を引いていた時代である。だからルイの一家がおまるの中身を窓から歩道にぶちまけていたのは衝撃的だった。住まいにはトイレがなく、みんなおまるで用を足していたのである。どうやら当時のパリの住宅には十分な設備のトイレが普及していなかったようだ。百年前のパリが汚物まみれで臭かったのは仄聞していが、それを実際に描写していたのは感動的である。「花の都パリ」の真実を見た気分だった。
主人公のルイは自閉症である。しかも、小学生で2桁の掛け算を暗算でこなす高知能であり、絵画の才能もあるギフテッドだった。彼は保育園に預けられたときはすぐに脱走し、6歳で学校に入ったときは周囲と馴染めずにいじめられている。典型的な社会不適合者である。少年時代のルイは自我らしい自我もなく、ただ眺めて観察するだけの虚ろな存在だった。おまけに共感能力も低く、姉が妊娠を告白してきたときはあり得ないくらい冷淡な言葉を返している。こういった問題児が後に偉大な画家に成長するところが本作の面白いところだろう。執筆当時は自閉症という概念もギフテッドという概念もなかった。にもかかわらず、それらが芸術家の類型であることを見事に言い当てている。人類が蓄積してきた知見は大きいものだと感心した。
ルイは一生懸命に絵を描いた。いつでも絵を描いていた。ずっと以前から彼のなかに感じていたものを描き出すには、まだ数年かかるだろう。
「あなたの目標は本当のところ何なのですか?」
「さあ、知りません」
この言葉はルイの人生でしょっちゅう口にされ、くり返されつづけた。(p.256)
本物の芸術家は決して満足することはない。ある日、ルイは画商から「きみも満足する絵ができたら、ぜひ見せてもらいたいな」と声をかけられる。それに対し、ルイは「ぼくは満足することはないでしょう。ぼくが正真正銘の画家でないことは、あなたがよくご承知でしょう」と応えている。ルイが自分のことを「正真正銘の画家でない」と規定しているところが興味深い。貨幣経済に組み込まれたプロの画家とは違うのだ。自分の感じていた現実を描き出すためにひたすら描く。ルイの絵が画商によってマネタイズできているのは奇跡であり、ルイがパンの心配もなく求道的な生活が送れたのも幸福なことである。
というわけで、20世紀のバルザックを堪能した。